しかし、有識者のレベルも、読者のレベルも、とことん落ちているのではないか。
これでは、政治家のレベルが落ちているという批判をすることもできないし、メディアは真の国民の関心を反映していない、という批判もできなくなる。
例えば、日銀の人事についてである。
今回の人事により、財務省と日銀のたすきがけ人事が復活したとか、次の総裁は中曽副総裁(候補)に決まっただとかいう解説が見られるが、どちらも誤りだ。
日銀人事は、今回の白熱した論議においても、前回の騒動でも、官邸のメンバーと国会ですべてが決まることが明らかだ。今後、日銀、財務省のたすきがけ人事など、起きようがない。首相あるいはその周辺が気に入ったメンバーを選ぶだけのことだ。
また、副総裁から総裁に昇格した人事と言うのもあり得ない。前回も今回もそうではなかった。だから、次回もそうではないだろう、というのが自然な解釈だし、それは副総裁次第だ。
根本的な問題は、学者に妥当な候補が少ないこと、そして、その数少ない妥当な候補を、官邸や国会が目利きをしてしっかり選ぶことが出来ないこと、それが問題だ。
セントラルバンカーが経済学者にならなければ、金融関連の官僚、もしくは、セントラルバンカーから選ぶしかないから、結果的に、日銀出身者か財務省などの出身者になるだけのことだ。今後、民間銀行や政府系金融機関の出身者がなるかもしれないし、官邸に信用されるそれ以外のバックグラウンドの人材が選ばれるかもしれない。
その意味で、出身母体を議論することは、全く持って無意味で、その意味で、出身母体は関係ない、と言っている、安倍、麻生、甘利の三者のほうが、有識者やメディア、国民よりも遥かに知的レベルが高いことになる。
それは、日本の終わりを意味する。
絶望的だ。