「比較優位」で人生を考えてみる

石田 雅彦

先日、あるテレビ番組で、ミュージシャンの玉置浩二さんが生まれ故郷を訪ねる、という企画が放送されていました。母校の中学校へ行って後輩たちに自作の歌を披露したり、父母への感謝のイベントを開いたり、玉置さんのユニークで魅力的なキャラクターがよくわかる構成になっていた、と思います。


中学時代の彼は、生徒会長をするかたわら、野球部のキャプテン、ピッチャーで四番、という一種のスーパーマン的な存在だったそうです。しかし同じころ友人とバンドを組み、その後は音楽の世界へ進んでいきます。中学時代に書いた文集では、自分のことを「ほかのことが忙しくて生徒会の仕事があまりできず、いい生徒会長ではなかった」と反省していました。

勉学のほうはどうだったのかよくわかりませんが、玉置さんは、生徒会長というリーダーシップを生かしたり野球選手の道ではなく、音楽の世界で才能を開花させたわけです。もしかしたら、そのリーダーシップを生かして政界へ進んで政治家になったり、野球で頑張ってプロ野球選手になっていたかもしれません。

ところで話は突飛な方向へ飛びますが、多国間貿易における国内産業の育成や競争力について、よく引き合いに出されるたとえ話があります。

ある小さな町に、優秀な弁護士がいた、と仮定します。その人は弁護士として仮に月に50万円の収入があるとしましょう。彼もしくは彼女は、仕事で書類を作成するタイピストとしてもその町で一番優秀だったので、自分で書類をタイプしていました。そうした作業に手間や時間を割かれるので、弁護活動だけに注力すれば100万円の収入を得られるのにもかかわらず自分でタイプしていたのです。

一方、その町には二番目に優秀な別のタイピストがいました。別に三番目でも四番目でもいいんですが、弁護士は月に30万円の報酬を支払い、失業中だったそのタイピストを雇うことにしました。タイプ仕事から解放された弁護士は、弁護活動に注力した結果、100万円の収入を得ることができ、その中から雇ったタイピストに30万円を支払います。一人で弁護活動とタイプの両方をやっていたときに比べれば、弁護士は20万円の収入増となり、被雇用者のタイピストも仕事と収入を得ることができた、というわけです。

このたとえ話は、国際分業の考え方やその合理性を説明するときによく引き合いに出されます。いわゆる「比較優位」の考え方です。しかし、ここでは多国間貿易ではなく、教育や個人の能力をどう生かすのか、という文脈に限って考えてみましょう。上記の例で言えば、弁護士は弁護士としての仕事に集中し、仮に自分より「劣位」だとしても別のタイピストを雇ったほうが合理的かつ効率的、ということになります。「劣位」のタイピストにしても弁護士に自分の仕事を独占されていては仕事にあぶれ収入を得ることができません。

タイピングの能力で言うと、その町で一番の弁護士は二番目以降のタイピストに対して「絶対優位」です。しかし、弁護士のタイプ仕事を肩代わりし、シェアすることで「劣位」である二番目以降のタイピストでも弁護士に対して「優位」な立場に立てる、というわけです。これを敷衍していけば、三番目のタイピストも四番目のタイピストも、また五番目の床屋も七番目の大工もその能力を生かすチャンスがあることになります。

人間の社会というのは、一番優れた才能の人間だけで成り立っているわけではありません。さまざまなレベルの多種多様な能力や才能が入り乱れて構成されています。ところが、日本の教育制度では、長い間、学力という「絶対優位」な分野だけで競争してきました。全員に弁護士を目指させた結果、タイプの技術も持たず、弁護士にもなれなかった人間を大量に出現させ、使い捨て人材がブラック企業で悩み苦しんでいる、というわけです。

その反動や反省から、個性を生かす教育や唯一無二の存在としての人間という多様な価値観を認める教育が導入されています。しかし、社会の側では依然として従来の学歴的な価値観が支配し、自分の頭で考える能力を求めつつも、一方で批判的な意見は認めず封じ込めようとする風潮が根強く残っている。さらに、少子高齢化でたいして「絶対優位」でもない大量の「弁護士」が居座って退場せず、若者たちは「劣位」に甘んじ続けなければなりません。

こうした現実の中で、個性の評価や多様な価値観をお題目だけで訴えるのでは、子どもたちに未来への希望を抱かせることは難しいのではないでしょうか。勉学でいい成績を取れなくても別の能力を発揮させ、才能を開花させればいい、といくら言っても「上には上」がいます。現実の世界では通用しないことは、子どもたちのほうが百も承知だし、保護者も本音と建て前で言えば現実に対応する教育投資をせざるを得ません。

しかしここで、二番目以降のタイピストでも「比較優位」に立てるし、みんなが弁護士を目指さずともいい、という発想から子どもたちを教育してみたらどうでしょう。多くのファンから愛されるミュージシャンであり、有権者から多数の支持を集める政治家であり、さらに三割バッターのプロ野球選手であるような存在を両立できる才能なんてほとんどいません。玉置さんもいろんな可能性はあったけれど、ただ音楽が好きだったのでほかの道を選ぶことはなかった。この社会にはたくさんの玉置さんがいるんだと思います。我々の価値観は多種多様であるべきだし、自分の好きな道へ進む人が増えることで、たとえ「劣位」だとしてもほかの子どもたちがそれぞれの仕事につくことができる、というわけです。

仮に優秀な外科医になれる能力を持つ子どもがいたとして、彼もしくは彼女がどうしても庭師になりたかったら、その能力は社会に生かされません。一方、外科医としてはたいした才能しか持っていない子どもは、庭師を目指した子どもにはかなわないけれど「比較優位」で外科医になれるチャンスをもらうことができ、社会へ貢献できます。また、外科医にならなかった庭師は、庭師としての仕事をすることができるのです。