書評『梅棹忠夫の京都案内』を読む --- 中村 伊知哉

アゴラ


梅棹忠夫の京都案内 (角川ソフィア文庫)

梅棹忠夫さん。
1920年、京都・西陣に生まれる。京大理学部卒。京大人文科学研究所教授、国立民族博物館初代館長。2010年没。
ぼくは面識もかなわへんかった大先生。その文庫本がいまどき京都駅の売店に積んだあったんで、ペラペラめくってみたら、1951年から65年ごろの論稿をまとめたものやとか。えらい古くさいな。ぼくが生まれる前や生まれたころの暗ろ~て抹香臭い京都の観光案内かいな。


ほんでも、市川崑の「鍵」や市川雷蔵の「炎上」や川島雄三の「雁の寺」あたりの京都のたたずまいを文字で確認するんもええかと思い、購読。

千年の首都でありながら、明治の革命とともに政治・経済力がそがれてもうて、没落する京都。
故郷への愛情とシニカルな視線が交錯してるくせに、東京はじめ外部へは意図的に向ける上から目線が、微笑みを誘います。
西陣という京のまん中で育った梅棹さん。ぼくも実家が西陣なんで、時代は違えど空気ははんなりわかります。
これは京都の外のかたがたに向けた案内書やおまへんな。あくまで京都人が京都人に書かはったもんでしょ。

本願寺、御所、金閣寺、賀茂川、祇園。そないな観光名所を並べて軽う解説したはります。それはよろし。
でも、そこに挟み込まはったエッセイが面白い。そんなん知ってるけど、あえて言われたらおもろいな、いう話と、へえ知らなんだ、いう話が転がってます。

おもろい話。たとえば、”京都にはふしぎな店がある。清水の七味唐辛子、祇園のお香煎(シソの粉)屋など、いずれもそれだけしか売っていない。ひどく専門化したものである。” –そうどす。西陣の呉服屋で和服えらんだとき、ハカマ屋、帯屋、下駄屋、足袋屋、羽織のヒモ屋、関係ないのに和菓子屋もきて、一人の客=ぼくの相手をして、小あきないの専門店が「アテらみな400年続いてますねん」言うたはりました。はいからに言うたら、モジュール経営でんな。

辛気くさい町です。「聞香」という、香をたいて、その種類をあてる香道いう芸の紹介がおます。”いかにも京都らしい、閑なあそび”。”暇人がたくさんいます。”  –貴族と、坊主と、ブルジョワ商人と、学者。ぼく、大学のころ祇園でバイトしてましてんけど、ロールスロイスで乗り付けてくるお金持ちいうたら、お坊さんかお医者はんでした。ところで、うろ覚えですけど、「家畜人ヤプー」の未来帝国イースにも香の文化があったんちゃいましたっけ。

芸妓・舞妓は京都のブルジョワが金に糸目をつけずに念入りに育て上げた、とあります。徳川時代、お金をもうけても、海外貿易は禁じられ、投資対象は多くなく、”けっきょく、みんな女に投資した”。 –ええこっちゃがな。京都の姉妹都市ボストンに住んでたころ読んだ「Memories of a Geisha」いう本、旦那はん松下幸之助さんやいう噂でしたけど、そういうことでんな。現代、ブルジョワが少のなりました。ブルジョワはんらは、ビジネスに投資するばかりやのうて、文化に盛大お金使てください。

ベンチャー育成は文化政策や思いますねん。1億円のベンチャー100社つくるんやったら、任天堂はんや京セラはんみたいな大きい会社が100億円積んだらええことですわ。経済としては。それよりベンチャー増やそいうんは、もうけた独裁の創業者が芸事やら骨董やら女やらにお金まかはるいうことでしょ。文化ですねん。やってほしことは。京都人が流れて興した大阪・船場の血イ引くCSK/セガの大川功さんが夜ごと芸者衆におひねり渡したはったんは、それわかったはったからどす。

“岡崎公園は、むかし白河上皇が院政をとられた法勝寺のあったところである。”  –その名をもろた左京区岡崎法勝寺町に、ぼくがいたスタンフォード日本センターがおました。NHKクロ現の国谷裕子さんのご両親が大家さんでして。えらいお世話になりました。2006年、ぼくの契約が切れるときにスタンフォード大学は家賃が必要なその建物を手放して、同志社大学の中に移設したんでっけど、もったいのおしたな。

いや、そら同志社かて、向かいは御所やし、ヨコに冷泉家はおますし、ウラは金閣・銀閣の親玉の相国寺ですし、そこに雁の寺もおますし、ええ土地ですけどな、法勝寺から出てくことおませんやん、借金かかえたわけでもなし。そのへんの塩梅はなんぼゆうたかてアメリカはんにはわからんわなぁ、いうて、ガバナンスやらコンプラやらいう西洋の呪文に、はぁスキにしなはれ、言うたんどす。

“市民はみんな比叡山にのぼったものだ。”  愛宕山は愛宕神社に、鞍馬山は鞍馬寺におまいりするためだが、比叡山は、”ただ、のぼるためにのぼった”。”修学院からまっすぐに急坂をのぼる、元気な子どもたちは、みんなこの道をあがったものだ。” 山のうえでは、”おばけ屋敷などという施設が、まいとしひらかれた。”

西陣から北白川に移り住まはった梅棹さん。ぼくは実家が西陣やけど、小学校は北白川のもっと北の修学院で、小学校の行事で毎年その修学院から坂のぼって比叡登山させられてました。その小学校の同級生、保育園経営日本一のJPホールディングス山口洋代表も元観光庁長官ヘンタイ溝端宏も、2コ下の前原誠司先生も、そうでした。うんと下のチュートリアルの2人もそうやったと思いますよ。

友だち同士でケーブルでヒエザン登って、おばけ屋敷行くんは楽しかった。ウラののれんくぐって入ったらタダでんねん。バット持って、出てくるおばけどついたったら、立命か産大のバイトの兄ちゃんのおばけが真顔で「どついたろか」いうて追いかけてくる、ほんま怖いおばけ屋敷やったんです。そんなガキどもばっかりでしたけど、もうつぶれましたかな、あそこ。

“東京、大阪では、「なんだ、学生か」とあしらわれても、京都へくれば依然として「学生はん」である。” 自由主義の温床。その思想は急進的であり、その行動は矯激である。そう書いたはります。60年安保前の文章ですもんね。でも、なんも変わってへんと思います。こないだ、ホンマ久しぶりに時計台のイベントに呼ばれて大学行ったら、総長の名前書いて、「○○打倒」いう看板が正門に立ってました。ぼくが学生の時は時計台に「竹本処分粉砕」書いたあって、まだヘルメットとマスクがいたはりましたけど、2012年末ででっせ、学長打倒いう看板を正門に置いたあるて、慶應ではえらい問題になりますな。京都では屁エでもおませんな。そのへん、スキです。京大、西部講堂、残しといとくんなはれ。

知らなんだ、いう話もあります。

京都の人は今の京都駅のことを、山陰線の二条駅に対して、七条駅と呼んだといいます。京都弁らしく「ひっちょえき」と発音する。”山陰線に乗るのに七条の停車場までゆくのは、いなかものときまっていた。” –確かに、西陣界隈のひとびとは二条駅を使てましたけど、京都駅をいなかものの場とは思てませんでした。それは、かなり、深い京都人ですね。ほんでも、わからんでもないわ。それより、「しちじょう」を「ひっちょ」と読む京ことばづかいは、改めて稿を起こします。

御所の周辺にある京菓子店では、「売ってくれ」などといってはしかられるという話。”  「チマキのこってましたら、わけていただけまへんか」といわなければならない。御所上納ののこりものを、人民がいただくのである。” –そうなんや~。

茶屋四郎次郎という大資本家・貿易商は、17世紀、ベトナムには大量の武具を輸出していたという話。高校の山川の日本史に名前はありましたけど、そこまでは出てませんどした。首都の工業力は軍事産業に発揮されていたということと、海のない京都に強い貿易商がおったいうことの2点を改めて感じました。

で、皇居を移転して、儀典都市としての京都に、天皇を戻せ、という提案が出て参ります。政府みたいなやっかいなもんはいらんさかい東京に残しといたるけど、帝は戻しとくなはれ。上から目線と慇懃が溶け合った京都らしい提案ですな。首都機能移転より楽しく議論ができるお話やと思います。

羅城門を再建しろ、いう提案もされてます。映画や小説であこがれたラショウモンを見に来た外国人に、「もう1000年ほどまえになくなりました」というのでは “かっこうがつきません。” なるほどなぁ。京都の先人はこういうことにこだわらはったんどすなぁ。

ぼくもこの際、何か提案してみよかな。
う~ん、「京大入試はスマホ持ち込みアリにしろ」でどやろ。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年3月12日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。