靖国に参拝した「政治を職業」とする先生方に伺いたい!

北村 隆司

麻生副総理など閣僚3人に加え、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバー168人が、春季例大祭に合わせて靖国神社に参拝したニュースは、海外でも大きく報道された。


麻生副総理は「海外で反応が出ているが、それによって外交に影響が出ることはあまりないと思う」と述べたようだが、その通りであって欲しい。

国際紛争、特に「領土」「人種」「信教」が絡んだ紛争は、関係する国民の感情を刺激する事もあり、歴史的にも合理的な理由で解決された例は殆どなく、妥協をしない限り、永遠の睨み合いか、力の解決(戦争)となった例が多い。

紛争の解決法を選択する政治家の責任は重い。

マックス・ウエバーは、ぞの著「職業としての政治」の中で、政治家のあるべき姿についてこんな主旨のことを書いている。

「政治家にとって重要な資質は『情熱』『責任感』『判断力』の三つだが、情熱は単なる情熱を指すのではなく、それが『仕事』への責任性と結びつき規範となった時にはじめて政治家の情熱となるのである。

そのために必要なのが、衆目を集めたいと言う政治家共通の虚栄心を克服できる判断力である。

又、将来の危険を予測できなくともその全責任を引き受け(想定外は回答にならない)、政治倫理は善行より悪行を起こしやすい事を知る人間こそが、政治家の資格を持つのである。

政治家には言い訳は禁物である。例え「戦争に負けた」としても、その現実を直視して未来に進まなければならない。

政治家にとって最も重要な事は『将来と将来に対する責任』であり、最大の敵が『虚栄心』である。『虚栄心』が単なる自己陶酔の目的となったときに、政治家は堕落する。

複雑な利害が渦巻く政治の世界では、善なるものより自己の利益を追求する事が大義であり、正しい事がいつも通るなどと夢想する様では、政治家としては失格である。善から善のみが、悪から悪のみが生まれるというのは真実ではなく、寧ろ、その逆が真実に近い。これが見抜けないようでは、政治のイロハもわきまえない未熟児である。

合理的な理由があるとは思えない中韓両国の主張も、現実国際政治では現実にある問題を直視し、合理性が無いと批判するだけでは、政治家としては未熟児だと言うマックス・ウエバーの考えを、我々はどの様に受け止めるべきであろうか?

世界の紛争の多くも、常在不合理の現実がもたらしたものが多い。

何千年にも亘り、平和に共棲してきた同じセム族のユダヤ人とアラブ人が、何十万人もの犠牲者を出しながら、イスラエル建国後65年を過ぎた今でも未だに解決の兆しも見えない泥沼の紛争に至ったのも、元をただせば、政治家の判断ミスが原因であった。

欧米のエゴで、パレステイナにイスラエルの建国を認めた国際連合が、パレステイナ紛争の調停高等弁務官として派遣したベルナドッテ伯は、シオニスト団体LEHIの手で暗殺されてしまった。

このテロ団体の主要メンバーには、後にイスラエルの首相となるイーツァク・シャミールや、その後「超和平派」に転向してアラブとの和解を主張したネイサン・ヤリン・モールも含まれていた。
イスラエルのパワーポリテイックスは更に続く。

キャンプ・デイヴィッド協定やオスロ協定などの和平の動きが強まり、右翼勢力が減退する事を恐れたイスラエル右翼政党リクードのシャロン党首は、2000年の9月に、多数のユダヤ人を組織して、1000人の警官に守られながら、異教徒禁制の回教聖地であるアル・アクサ寺院に乗り込んだ。

彼は「アル・アクサ寺院は、元々はユダヤ人の第一の聖地である“嘆きの壁“の敷地の一部であり、ユダヤ人のものである」と挑発したが、我々日本人が中韓の主張を受け容れない様に、アラブ人がこの主張に耳を傾ける筈もない。

然し、過激な主張で国民感情を刺激したシャロンの戦術は成功し、翌年の選挙で勝利して、念願の首相の座を射止め、「権力欲を満たす虚栄を、大義に優先した政治家」が勝利した典型である。

先週金曜日に、ブラッセルで調印されたコソボとセルビアの和平協定はその反対で、ダチッチ・セルビア首相は、国内で和平協定への反対意見が圧倒的に強い事情を知りながら、協定の署名に踏み切った。これは、己の「虚栄心」を抑え「セルビアの将来と将来に対する責任」を優先させた判断であった。

麻生副総理を含む、靖国を参拝された先生方の国家に対する情熱は疑う余地は無いが、「海外で反応が出ているが、それによって外交に影響が出ることはあまりないと思う」と言うだけでは、複雑な利害が渦巻いている諸外国の支持を取り付けるには、余りにも弱すぎる。

国民は国家の一大事の時には政治家に期待するものである

「政治家には言い訳は禁物である。例え『戦争に負けた』としても、その現実を直視して未来に進まなければならない。」と言うマックス・ウエバーの言葉が正しいとすれば、「戦犯合祀」の是非は論議の余地が多いにあるとしても、これが問題になっている現実を直視し、前に進む事こそ政治家の責任ではなかろうか?

「政治を職業」とする諸先生方が、この時期に靖国を参拝された理由が、自分の「信条を守り通す」と言う単なる自己陶酔や人気取りを狙った物ではなく、「将来に対する責任」を果たす為に必要であった理由をお伺いしたい。

2013年4月25日
北村 隆司