Foresightにおもしろいエッセイが出ている。田中直毅氏の黒田日銀総裁へのインタビューという形式だが、最後に「春の宵の心地よい夢だった」と書かれているので、今までの会話で聞いたことをもとにした架空対談だろう。しかし、ここには黒田氏の個性がよく出ている。
黒田氏は70年代にオクスフォード大学に留学して、経済学の修士課程を修了した。彼の思想には、そのとき学んだポパーの影響が強いという。彼はこう語っている。
ポパーが論究の対象とした全体主義が、日本に登場する気配があるわけではない。しかし閉鎖された社会という構図は、改めて見つめ直されるべきではないか。となればその基準は、反証可能性のない命題で自らを防衛してきた者たちを「敵」として意識化することから生まれるのではないか。[・・・]
反証可能性のない命題のひとつが“セントラル・バンカーは常に物価上昇に対して警戒的でなければならず、セントラル・バンカーの正統派は常に厳しめの金融政策を実行する”というものだ。日銀は反証可能性のない「セントラル・バンカー仮説」で武装したまま、開かれた社会において具体的な目標提示をしてこなかった。私が過去20年近く日銀の金融政策の組み立てに問題点が多いと指摘してきたのは、この点だ。
黒田氏が(過去に)このようなことを語ったとすれば、彼は間違っている。「反証可能性が科学的理論かどうかを判別する基準である」というポパーの理論は、多くの哲学者によって「反証」されたからだ。
ポパー理論の反例を見つけるのは簡単である。たとえばコペルニクスが地動説を唱えたとき、当時の神学者は「地球が自転しているとすれば、私がいま真上に向かって矢を放ったら、落ちてくるまでに地球は動いているので、矢は離れたところに落ちるはずだ」として実験を行なった。矢はまっすぐ元の地点に落ちてきたので、コペルニクスの理論は「反証」された・・・のだろうか。
いうまでもなく、これは慣性という概念を当時の人々が知らなかったからで、反例にはなっていない。つまり、ある実験が反証になるかどうかは、人々がそれを反例とみるか例外とみるかというパラダイムに依存して決まるので、反証可能性は科学性の基準にはならない、というのが現在の科学哲学の通説である。
黒田氏は、このように具体的な数字で政策を示すことが「開かれた社会」の条件だと考えているようだが、これもポパーの親友ハイエクが「見せかけの客観主義」と批判した思想である。社会を科学的に建設できると信じるポパー的な「社会工学」が、社会主義を生んだのだ。
黒田氏の「2年後までにCPIを2%上げる」というインフレ目標は、ポッパリアンらしい反証可能な命題だが、もし2015年4月に実現しなかったら、彼も岩田副総裁のように辞任するのだろうか。こういう数値目標は透明性という点では望ましいが、それ自体が政策の科学性や有効性を保証するわけではない。黒田氏に必要なのは、経済は限りなく複雑で簡単に反証も検証もできない現象であることを認識する謙虚さではないか。