いつも皮肉ばかりなので、たまにはまじめに記事を書いてみたい。
田原 総一朗は偉大だ、なんて、いまさら言われても困惑するだけだろう。しかし、このようなミスリードをする記事が人気記事として上がっていると、まじめに反論せざるを得ない。
朝まで生テレビ、通称、朝生。
私は、先日、初めて出演した。
見かけによらず、朝生スタイルの討論は苦手なのだが、改めて、田原氏の偉大さを知った。
彼なしではこの番組は成り立たない。
それは、出演者やスタッフ、全員が知っていることだ。
そして、討論番組の司会をすることは、現在の日本では、彼以外、誰も出来ないと思う。
しかし、そんなこと当たり前すぎて、誰も言わない。
だから、私は、あえて言うことにする。
先日、新週刊フジテレビ批評で、テリー伊藤も言っていたが、テレビの報道では、確かに、新しいスターを使うことが求められる。発掘し、育てることが必要だ。
しかし、それは簡単ではなく、田原氏以外には、今は出来る人がいないと思う。
二つの意味で、先の記事は、テレビの討論番組の本質を分かっていない。
第一に、テレビを見るのは、40代以上である。政治番組、報道番組は、特にそうだ。
第二に、討論を面白がるのは、40代以上である。本来は全共闘世代が主役なのだが、彼らが、テレビでの討論を席巻していた時代に大学生でテレビを見ていた人々以上だ。そして、実は、彼らは、朝生で育ったのである。
したがって、テレビの討論番組は、朝生が終われば終わる。もう二度と生まれない番組となるのだ。
時代が生んだものであり、野坂昭如や大島渚がいなければ、成り立たないのだ。
石原慎太郎も引退だし、橋下の討論をすかっとしたと言っているのは、40代以上の世代だ。
20歳代の討論は、闘論ではない。
ディスカッションであり、チームミーティングなのだ。
みんな喧嘩は好きではない。
同一の目標を設定して、それを達成するにはどうしたらいいか、議論する。それが今のスタイルだ。
バンド仲間で、一緒に次の曲を作るのに、もめる。そういう意味での議論だ。
だから、新しい報道や討論番組が始まるとすれば、タモリのスタイルだろう。
その意味で、テレビタックルが成功しているのは、出演者は喧嘩することもあるが、阿川、たけしという両雄いや、二大人格者の仕切りは、まったく異次元で、現代、これからにもマッチしている。
実際、ビートたけしというスターは、何も言わない。司会なのに、独り言のようなギャクをかますだけだ。しかし、それで仕切るというスタイルだ。
本当は、討論司会者でなく、タモリ、たけしに代わる、彼らのような司会者が必要なのだ。これからのテレビには。