アベノミクスについて本を書くことになって、その種の本をまとめて読んでみたのだが、一つの共通点に気づいた。最大のコスト要因である賃金の問題を避けているということだ。たとえば日銀の岩田副総裁が先月出した『リフレは正しい』の中身は、これまでの本の繰り返しだが、第1章で「なぜ日本だけがデフレになったのか」と問いかけ、次のような要因をあげる:
- 不良債権説
- IT革命などによる生産性向上
- 生産年齢人口説
- 中国からの輸入説
- 日本固有の賃金調整説
このうち1については「もう終わった話」とし、2~4については「日本だけで起こっているわけではないと斥けるのだが、5についてはこう書いている:
これは、民間のエコノミストが言い出した説です。[・・・]日本企業は雇用を守ろうとして、賃金を引き下げ、雇用者もそれを受け入れるため、デフレになったという説です。しかし、日本では、賃金が下がる前にデフレが始まっています。企業はデフレのために賃金を下げないと雇用を維持できないのです。
ここにはいくつもの嘘が含まれている。岩田氏は「民間のエコノミスト」の話は信用できないといいたいのかもしれないが、名目賃金の低下がデフレの原因だと主張しているのは、東大教授で元日本経済学会会長の吉川洋氏である。
岩田氏は数字を示していないが、国税庁と総務省の統計でくわしくみてみよう。右の表のように変化率を指数であらわすと、平均給与(名目賃金)は1997年から下がり始めているが、デフレが始まったのは1999年からであり、明らかに賃下げが原因でデフレが結果である。この20年足らずの期間に日本の名目賃金はOECD平均より90%以上も下がったのだから、これが日本だけデフレになった原因である。
図では低下した期間に着色してあるが、給与が6.9%ポイント下がった時期にCPIは2.6%ポイント下がっている。賃金は(産業によってかなり違うが)生産コストの5~8割を占めるので、ほぼこの賃下げだけでデフレは説明できる。その逆に、価格が3%下がったとき、経営者が「雇用を維持するために」賃金を7%近くも下げることは考えられない。
高橋洋一氏も「OECD諸国で中国からの輸入の対GDP比率はどの国でも上昇しているが、デフレになっているのは日本だけである」と書いているが、これも同じ理由で間違いである。片岡剛士氏の『アベノミクスのゆくえ』に至っては、賃下げがデフレに先行しているデータを示しながら「実物的現象はデフレの原因ではない」と断定して、賃金を無視している。
これはバイアスが強すぎて事実が見えなくなる、認知的不協和である。リフレ派のセントラル・ドグマは「日本だけデフレになっている原因は金融政策にある」という教義だが、上のようにデフレの原因は日銀ではないので、インフレ目標も量的緩和も無意味である。
本質的な問題は、非正社員を増やすことによって賃下げする雇用慣行にある。したがって正社員の特権をなくして非正社員との身分差別を撤廃し、すべての労働者が同じ条件で働ける社会にする「第3の矢」こそ、アベノミクスの中で唯一の意味のある政策である。