メディアのデジタル化は、メディアとコンテンツの分離を促進する。ソーシャルとモバイルの大トレンドの向こうに見えてくる、メディアを揺るがす新たな価値観について考察する。
一般の多くの方々はもちろん、メディア業界に従事する人々のあいだでも、「メディア」と「コンテンツ」というふたつの語は、いささか幅広く使われすぎる傾向にあります。ふたつがほぼ同義語として扱われるケースが多いことからもわかります。
しかし、やっかいなことに、ふたつの概念の違いに注意を払うべき状況が到来しているのです。
これから、本稿を通じて、ふたつの概念をめぐる出発点からメディアの最前線の動向にまで到達していきたいと思います。めざすのは新たなメディアの常識づくりです。
メディアとは何か? コンテンツとは何か?
まず、メディアおよびコンテンツについて、筆者なりの区分を概論として示します。
少し省略気味に述べるなら、
メディアとはひとつないし複数のコンテンツを、ある一定の意図で取りまとめて届けるもの
です。
また、コンテンツの容れ物、もしくはコンテンツの伝導体的な側面がメディアであるともいえます。
たとえば、“新聞”というメディアにおいて、印刷された物理的紙面は個々の記事(コンテンツ)を取りまとめて読者に届ける形式だといえます。さらには、個々の記事を超えた一定の意図が、新聞メディアには盛り込まれていることを読者は意識します。
一方、
コンテンツとはメディアの実体部分をなすもの
です。
再び新聞を例にとれば、個々の記事がそれに当たります。コンテンツのないメディアはありえません。読者がメディアに触れるのはその目に止まった個々の記事を通じてなのですが、結果として個々の記事を超え出た側面にも触れています。それがメディアであるともいえます。
ここで誤解して欲しくないのは、“コンテンツとは人間が丹精込めて書き上げた(創り上げた)もの”といった思い込みです。
“ある一定の意図で取りまとめた”気象情報や株価情報といった機械的に収集した情報であっても、メディアは成立するのです。他人の手になるコンテンツへのリンク集やまとめ情報であっても、同様です。制度や倫理に触れる問題は、脇に置いての議論としてですが。
こんな関係にあるメディアとコンテンツですから、混同されやすいのはムリからぬことです。
混同されやすい両者なのですが、混同の方向とは逆向きに、“メディアとコンテンツが分離”しやすくなっているという現象がいまは生じています。
分離現象は、コンテンツがデジタル的に作られることで加速します。
たとえば、「MSN産経ニュース」に掲載された記事が、時をおかずに「ヤフー! トピックス」に転載されることがあります。コンテンツづくりにデジタル化が浸透したいま、コンテンツは、個々のメディアの(形式的な)縛りを離れて瞬時に旅をするようになりました。
ところで、デジタルな時代がメディアとコンテンツにもたらす変化は、“分離しやすさ”という基本をはるかに超えた状況を示しています。
たとえば、Twitter や Facebook といったソーシャルメディアがあります。
そこでは、多くのユーザーが、自分の興味や関心のおもむくままにコンテンツ(へのリンク)にコメントを付して友人らと共有します。
これは、元来あったメディアとしての意図を大きく離れて、コンテンツがばらばらに旅するようになった事情を表していることは述べてきたとおりです。
さらに、コンテンツを共有しあうソーシャルメディアの住人が、元来のメディアに代わってある意図をそこに込めていることから、それは“新たなメディア”の誕生とさえいえるのかもしれません。
なだれをうつ価値観の変化
ソーシャル“メディア”という新たな形式的側面を取り上げましたが、スマートフォンからタブレットへいたる新しい一群の情報機器の普及が、メディアとコンテンツの関係をこれまた大きく揺さぶる動きを見せています。
変化のひとつは小さな画面サイズに適合するよう、コンテンツが新しい形式を見出そうとする動きを示しています。
PCのように大きな画面を前提に、メディアはコンテンツの周りに広告をはじめとする多くの情報を盛り込んできました。モバイルで同じようなメディアの意図を押し通すことはできません。そこで小さな画面に最適化する新しい形式への模索が始まっています。
モバイルで生じるもうひとつの革命的な変化はタッチ操作です。
指先ひとつで情報を操作するスタイルは、これまた PC の常識を大きく書き換えました。画面サイズの変化と同様、これもメディアとコンテンツの関係に変化をもたらしています。
そして三つ目の変化です。それはモバイル性そのものにあります。
すなわち、場所や時間を問わない情報接触がメディアとコンテンツの関係を変えていくのです。たとえば、MarkeZine「『スマホは10分以内で購入完了が8割。PC とはニーズがまったく異なる』 スマホファーストを推進する ANA のオウンドメディア戦略」という記事はひとつの例証です。http://markezine.jp/article/detail/17219
同記事は、ANA(全日本空輸)のサイトで航空券を買うユーザーが、スマートフォンからのアクセスとPC からのアクセスでは、滞在時間が著しく異なるとします。これは、モバイルからのアクセスでは、ユーザーは短い時間で何かを処理したがっていることを端的に示します。これはコマースの例ですが、ニュース(メディア)であっても同様の違いが生じるはずです。
デジタル時代にメディアとコンテンツは分離しやすくなったという出発点から始まり、ソーシャルメディアやモバイルの大波をくぐることで、メディアとコンテンツの関係に劇的な変化が生じています。そこに新たな価値観がなだれ込んできているのです。
その新しい価値観とは、「体験的価値」と「文脈的価値」の2つです。
ふたつの“価値観”
前者の体験的価値とは、たとえば、表示や操作性の美しさ、快適さ、楽しさなど、これまではコンテンツそれ自体の価値(個々の記事の面白さ、品質など)の影に隠れて取り上げられることが少なかったメディアの形式的側面の拡張に関わっています。
ユーザー(読者)にとっては、コンテンツの価値と同じぐらいに表示や操作性の高さをはじめとする側面の価値の重みが高まり、それを総合したものが体験的価値として語られるようになっていると見ます。
後者の文脈的価値は、ユーザー(読者)がコンテンツに触れる状況の拡張に密接な関係があります。
モバイルでは、どの場所で使っているのか、時間は十分にあるのかないのか。はたまた、それがプライベートかビジネスの時間帯に属しているのか、などユーザーの状況が刻々変化します。
この決して一意ではない状況を、“文脈”(コンテキスト)と呼んでみたいと思います。
今回は詳細には立ち入りませんが、メディアのビジネスの視点では、ユーザーの文脈(とその変化)になめらかに追随することができなければ、そのメディアとユーザーの接点は断片化してしまい、いずれユーザーの文脈を包括的に追随するメディアとの競争に敗れることになるでしょう。
このような重大な価値観について、かつてメディアの送り手が頓着することはありませんでした。ユーザーとメディアの接点は固定的、言い換えれば一意であり、そこに変化を想定する必要が薄かったからです。
さて、体験的価値と文脈的な価値という、コンテンツとメディアをめぐる変化は、メディアのビジネスを悩ませるリスクであることは書いてきた通りです。
しかしそれは大いなる機会でもあります。筆者が“拡張”という語を用いたのもそれを指しています。
筆者の視点では、現代のユーザーは、メディアとコンテンツとの接点を広げようとしているように見えるのです。
体験的価値と文脈的価値という新たな視点から生まれてくる新たなメディアやサービスには、別の稿で目を向けてみたいと思います。
(藤村)
編集部より:この記事は「BLOG ON DIGITAL MEDIA」2013年5月13日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった藤村厚夫氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方はBLOG ON DIGITAL MEDIAをご覧ください。