「ハフィントン・ポストの日本版がつまらない」というのが話題になっているので、ほとんど読んだことがないのだが読んでみた。たしかにつまらない。さらに朝日新聞と提携したというのが損している。
ハフィントンは2005年にブッシュ政権とイラク戦争に反対するメディアとして創刊された。そのターゲットは明確であり、主張にも説得力があったので、政治的な影響力も強まった。アメリカのメディアは保守が多いので、こういう左派系メディアに稀少価値があったのだ。
ところが日本は逆である。朝日新聞や報道ステーションのような社民的パターナリズムがメディアの主流なので、こういう「進歩的言論」はどこでも読める。だから論壇誌は、右翼的な雑誌しか売れない。『論座』は消え、『世界』は実売数千部といわれるが、極右の『WILL』は10万部が完売だ。
朝日新聞のポジショニングは、一貫してきれいごと(politically correctness)である。日本が高度成長を遂げていた60年代に「くたばれGNP」という利潤追求する企業をたたくキャンペーンを張り、中国が文化大革命で数千万人を虐殺していたとき、紅衛兵を賞賛するキャンペーンを続けた。最近では民主党でさえあきらめた「原発ゼロ」をまだ主張し、慰安婦をめぐる大誤報を訂正さえしない。
これはタレブのいうスティグリッツ症候群である(私は福島みずほ症候群と呼んだ)。近代社会では、自分は「庶民の味方」を演じて「悪い政治家」をたたき、そのコストを社会全体に押しつけることができる非対称性があるので、このような朝日新聞のモラルハザードは合理的である。
しかし実際の人々生活はそんなきれいごとでは動いていないので、政治はもっと泥臭い現実に従って動く。そして朝日はそれをきれいごとの立場からたたく――という無限ループが続くが、両者は永遠にすれ違い、政治は何も変わらない。
ハフィントンよりはるかに低予算でやっているアゴラが読者に支持されているとすれば、このように戦後の日本を毒してきたきれいごとに決別し、少しでも現実に近づき、それを変えるメディアになろうとしていることではないか。その言説は往々にして朝日新聞的な良識にさからい、政治的に正しくない(politically incorrect)かもしれないが、むしろわれわれはそれを誇りにしたいと思う。