大学の機能が、社会に対して人材を供給することだとしたら、大学の顧客は、学生ではなくて、人材を必要とする社会である。ならば、学生は、社会に対して供給されるべき商品であり、大学の使命は、優れた商品を社会に送り出すことである。
大学が社会との関係性を強くし、大学に身を置く学生が、社会の求めているものを、感度よく捉えることができるようにすること、そのような環境を大学が提供することによって、結局は、学生の効率的な職業選択を可能にするのだ。効率的という意味は、学生の希望と社会の需要との最大限の適合である。
学生の視点に立った教育では、社会の需要に的確に対応できない。そうなると、結局は、学生のためにならない。大学教育を、学生が社会に参画していくための準備段階として位置づけるならば、社会の視点に立った教育こそが、学生の利益にもなるということである。
大学というのは、四年という長い時間をかけて、学生の就職希望(それにしても、就職というのは、本当は、職業に就くことのはずだが、なぜ、この言葉について、会社に入ることと同義になるような矮小化が行われるのか)と、社会の人材需要(同じ意味で、必ずしも、企業の採用に限らないはずだが)とを、効率的に適合させることで、社会的な付加価値を創出する場所でなければならない。
その意味で、大学は、人材の創出市場である。ところが、現在の大学は、人材の供給側、即ち、学生(というよりも、その親)にいる。一方、産業界等の社会は、人材を需要する側にいる。大学の教職員組織が大学なのではなくて、大学とは、学生と、教職員組織と、人材を求める社会全体、この三者の参画する開かれた市場にならなくてはならない。このことは、大学の経済の仕組みにも、はっきりと表れている。大学の収入は学費だけではないからだ。人材を求める社会全体からも、多様な資金が流れ込んでいるのである。
国立大学では、学費は小さな比重しか占めず、多額の税金が投入されている。私立大学にも、税金から補助金が払われている。税金の投入は、社会の需要に基づく人材の育成という大学の社会的機能を抜きにしては、正当化され得ない。大学が社会から寄付金を募る行為も、産業界等からの共同研究・受託研究・受託事業等にかかわる収入も、大学の社会性を前提にしなければ成り立たない。
産業界の人材需要は、量において相対的に低下しつつ、質において多様化している。なのに、人材生産側の大学教職員組織、および、その経営は、社会の変化に適合していない。こういい切ることが大学関係者に失礼だとしても、社会の変化に十分には適合できていないことは、明らかだと思われる。
私は、大学の構造的問題を、少しも悲観していない。なぜなら、変革は常に新たなる事業機会であり、社会が健全に機能している限り(私は、この点については、楽観論者である)、変革は必ず来る。大学は社会に開かれた人材市場であるとの根本的視点の転換により、人口動態的な学生の減少によって深刻化が予想される財政問題にも、必ず、答えが出てくる。逆に、財政問題の解決は、社会全体からより多くの収入を挙げるということだから、財政問題を突き詰めることから、大学の新しい社会的機能が見えてくるはずなのである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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