海外メディアが見た日本の選挙~日本の選挙は見ていて笑いが止まらない!?

田村 耕太郎

海外有力メディアの日本支社長と日本の選挙について意見交換しているが、彼らが口をそろえるのは「候補者の皆さんには申し訳ないが、日本の選挙は見ていて笑いが止まらない」というもの。選挙をやってきた経験者としてわからなくもない。彼らがまず指摘するのは街宣車。


「テクノロジーの国とのイメージの日本で21世紀の選挙とは思えない陳腐さだ。追いかけてみたが、候補者の名前を絶叫して連呼している車が目立つ。政策も哲学も語っていない。何の意味があるのか?」と聞いてくる。鋭い彼らは「我々はみなさんのためにこれだけの苦労をしています、と汗をかきながら見せるためか」と仮説を述べる。まさにこの仮説が当たらずとも遠からずなのだと思う。

自分でも選挙戦を戦ってみて、街宣車はおかしいと思った。確かに政治は机上の空論ではできないので、頭でっかちの人間が世間を知るために地べたを歩く意味はある。選挙カーはそのトランスフォーメーションプロセスの役割を果たすのかもしれないと思う。しかし、街宣車がその意味で最も効果的だとは思わない。地方では、まさにお祭りのおみこしのようだ。楽しみの少ない地方では、お祭りのお神輿のように、自分たちが担ぎたい人を担いで勝負する象徴として街宣車が機能している面があると思う。

しかし、朝8時から夕方8時まで炎天下に窓を開けてエアコンを切って名前を連呼して手を振っていると「頑張っている」錯覚はあるが、同時に何も考えられなくなって脳は停止してしまう。政治家になる体力テストという人もいるが、その程度の意味ならお金も時間ももったいないと思うし、炎天下で脳を停止して窓を開けて手を振る体力が、これからの日本を引っ張る人材に最も必要な素養とは思わない。

政治家は自分の就職活動である選挙で頑張るのではなく、当選した後に国民のために頑張るべきで、選挙で消耗すべきではない。日本は政界に入るコストが高く、労働市場もまだまだ硬直的なので、落選は失業となり、莫大な選挙費用は負債となりかねない。だから選挙戦に必死になるのはわかるが、それは個人の事情であって、国益とは何の関係もない。今のようにコストが高く、恥ずかしい選挙戦を強要していれば、ただでさえ、まともな経済計算能力がある人間が参入してこない。

コストが安く、候補者や政党の正確な情報が伝わるネット選挙をもっと普及させたいなら、街宣車やポスターやビラやチラシを禁止すべきだ。候補者も先進国でこんな選挙をしているのは自分たちだけだともっと気づくべきだ。そういう意味で、海外メディアに日本の選挙の特殊性を世界にどんどんアピールしてほしい。笑いをこらえきれずに日本の選挙を眺める彼らを見て心からそう思った。