内ゲバの時代

池田 信夫

きのうの記事には大きな反響があったが、中核派という組織を知らない人も多いようだから、説明しておくのもわれわれの世代の責任だろう。


中核派は、60年安保のあとにできた革共同という組織が革マル派とわかれてできたもので、革マル派が黒田寛一などの理論を重視するのに対して、直接行動を重視する「肉体派」だった。60年代後半には、社学同(ブント)・社青同(解放派)とともに「三派全学連」として武装闘争の中心になり、羽田闘争や佐世保闘争などでは大量の逮捕者を出した。

このころはまだ運動のエネルギーが国家権力に向いていたのだが、70年代になって新左翼運動が退潮してくると、党派同志で争う「内ゲバ」が増えた。それも最初は集団で衝突するなぐり合いで、「頭はねらうな」という暗黙のルールがあったが、私が大学に入ったころからそういうルールが崩れ、個人をねらうようになった。その武器は主として鉄パイプで、次第に殺害を目的とするようになった。

私は党派とは無関係だったが、私の所属していた社会科学研究会というサークルには、革マルも社青同もいたので、メンバー10人のうち4人が殺された。全員が革マル(およびその友人)で、そのうち3人が中核に殺された。彼らの共通点は、地方の高校出身者で駒場寮に住んでいたことだ。身近に友達がいないので、活動家が近づいて、最初は「ベトナム反戦」のような党派色のない集会に勧誘し、そのうち党派の教典を読ませて洗脳してゆく。今回の「反原発」や山本太郎も、その「餌」だろう。

今でも記憶に残っているのは、梅田という学生だ。まじめな学生で、サークルに入ってきたときは「経済学部で過渡期経済論をやりたい」という。過渡期経済とは資本主義から社会主義への過渡期のことで、ブハーリンが論じたものだが、当時はまだそんな歴史観が信じられていたのだ。それがしばらくすると、黒田や梯明秀などの革マル派の教祖の本から引用した話を呪文のように繰り返すようになり、「中核を打倒することが革命の第一段階だ」などというようになった。

そのうち梅田はサークルに出てこなくなり、生協の前でアジ演説をやり始めた。「こんな所にいたら危ないぞ」といったら、「大丈夫だよ。みんなの見ている前が一番安全なんだ」と笑っていたが、1975年10月、衆人環視の中で数人に取り囲まれて鉄パイプでなぐられた。頭蓋骨骨折で、即死だった。おびただしい血が食堂前まで広がって一帯が立入禁止になった。革労協が犯行声明を出したが、犯人は不明だった。

党派に入って1年もたたない彼が、東大にいなかった革労協に殺されたのは、その直前に静岡で革マルが革労協の活動家を殺害した報復だった。誰でもよかったのだ。しかも大学の構内で白昼に殺人事件が起こり、犯行声明まで出ているのに、警察は家宅捜索もしなかった。公安は、明らかに極左が内ゲバで自滅するのを放置したのだ。彼らのねらい通り、内ゲバの激化とともに極左勢力は急速に衰退した。

極左運動がこういう分派闘争になることはよくあり、それも本来の敵である国家権力よりも身近の党派への近親憎悪が強くなる。しかし個人テロにまで至ったケースは珍しく、その点では彼らの否定していたスターリンの粛清や毛沢東の文化大革命に似ている。日本では、戦前の共産党のリンチ殺人の伝統だろうか。

あのころに比べれば、山本太郎のやっているちゃちな反原発運動なんてお遊びみたいなものだが、彼を傀儡にして中核派が国政に議席を得ると大変だ。かつて菅直人氏のやっていた「反原発勉強会」にも、中核派の幹部が常駐していたことは公然の秘密だ。そういう連中のやっている反原発運動が「命を守れ」とは悪い冗談である。