国家の良心としての選挙~選挙を考える(2) --- 佐藤 正幸

アゴラ

国家には役割をもった様々な主体が生活をしている。中でも四権として第四の権力に数えられるマスコミ(報道)の力は絶大だ。これらの権力の中で国民というマジョリティーはバランサーになることを求められるわけだが、バランサーとして判断を下すには判断基準が必要になってくる。


国民は分かりやすく、目に見えるものを信じる。権力と言われる行政、立法、司法、報道の中で視覚効果を持つテレビなどを駆使できるのは報道だけである。国民に判断基準を提供してきたことで国民の多くが報道の影響を大なり小なり受けることとなった。故に報道は力を持ち権力を持つに至ったのである。

しかし、変質を遂げるマスコミが国民の選択に混乱を生じさせているように感じる。

マスコミは観察者でなければならないはずだ。いつ、どこで、何が、誰によって起こされたのか。ありのままの真実を提供しなければならない。事実を伝え国民に判断基準を提供する。そこに情報操作や恣意的な意志の介入があることは許されない。ここでは重要なのは、マスコミは第三者的に事実を観察し報告する立場ということ。つまり、あくまでもニュースを報じる側であってニュースを作る側ではない。ましてやニュースの当事者ではないということだ。

第四の権力であるマスコミの良心は、ニュースの当事者になりたいと思い始めるところで崩壊する。書かれるほうになりたいと思う。これこそがマスコミの立場をはき違えたものであり、国民がバランサーとして機能する立場を揺るがす問題だ。

しかし、現実はマスコミは伝えることに飽き足らず、伝え方を変え、世論を誘導し自身が当事者になろうとしている。こうした報道という権力の暴走は選挙での選択を危うくする。前回の第45回総選挙から如実な傾向として出てきたのは大政党の鮮烈な勝ち負けである。前回の民主党政権は空前の308議席を獲得したし、今回の選挙では自民党が294議席を獲得した。これは白か黒かを問う報道の姿勢に少なからず国民の判断が影響を受けた結果といえよう。

筆者も秘書時代、マスコミの方と懇談する機会を持ったが、少なくない記者が報道を権力だと認識しており、伝え方次第で政治家を恐喝することすらできることを認識している。伝える立場ではなく、動かすほうになりたい、という声も何度か耳にした。

バランサーとして、国家の権力機構の良心として選挙があり、国民に判断が委ねられているのにも関わらず正確な判断基準がない。何を信じて投票していいのか分からないから投票に行かない、という行動にも結び付いている可能性がある。つまり、現在の日本ではバランサーが機能していない状況といえる。動作はするのに動作不良を起こしている状態ともいえるだろう。

選挙というバランサーを正常に機能させ、日本の針路を誤差なく修正するにはどうしたらよいのか。

以前、拙稿「ポスト自民党再考~選挙のその先へ」でもお伝えした通り、まずは国民一人ひとりがメディアリテラシーを持つこと。つまり情報をトレーサビリティーし、誰が流している情報なのか、その背景にはどういう意図が働いている可能性があるのかを考える力を持つ必要がある。

いわば、メディア立ちすることが重要だ。

思考の全てをメディアに委ねない。メディアには意図のある情報もあり、大手だからといって恣意性がないという保証はない。

そして何より国民自身が第五の権力だと目覚めることである。前述した四つの権力はしょせん少数だ。選挙という多数決の場では数の意思が尊重されるのである。であるならば、マジョリティーを占める一般国民こそが最も大きな権利を持っているのだ。

国民が動けば社会は変わる。薬害エイズ訴訟や拉致問題は当初小さな灯にすぎなかった。しかし、大多数の国民に認知され、日増しに声が高まることで問題として上述の権力が認識をし、解決を図ることとなった。選挙に行くということは社会に対して権力に対して第一声を上げることでもある。と同時に、自身が権力化することでもあるのだ。

選挙で一票を投じるということは権利の行使でもあるが権力の行使でもある。国民が使える権力としての選挙で社会に第一声を上げる。ここから全ては始まる。以前のキムタク主演のドラマ『Change』ではないが、日本を変えるのはあなたかもしれない。

佐藤 正幸
World Review通信アフリカ情報局 局長
アフリカ料理研究家、元内閣府大臣政務官秘書、衆議院議員秘書