広告配信技術の進展が、メディアをめぐる生態系を変えていく。メディア運営者、読者、そして広告主のエコシステムはこのまま変質してしまうのか? 最新の広告テクノロジーがもたらす衝撃を考える。
最近になって、Facebook が自身の広告価値の毀損を免れるため、「広告主のイメージを損なう可能性があるグループやページへの広告表示を制限する」という取り組みを開始したという報道が、筆者の目を引きました(ITmedia マーケティング「Facebook、ブランドイメージ確保のために広告表示を制限」)。
最近、「広告配信先が選べなくて困る」という広告主が増えているという。多数のメディアと契約し、記事のコンテンツや読者の趣味嗜好に合った広告を配信する第三者配信プラットフォームが増えてきたためだ。第三者配信は、媒体ごとに広告原稿を用意することなく、効率的に多くのメディアに配信する利便性がある反面、配信される先のコンテンツやメディアを選べないといった課題がある。例えば下着メーカーの広告がアダルトサイトに表示されたり、交通事故ニュースの横に自動車メーカーの広告が出たりするといった状況は、ブランドイメージを大切にする企業なら誰しも避けたいと思うだろう。
(前掲記事より)
「第三者配信」とは、簡単に言えば、広告主(とその代理店)が、メディア運営者と広告の掲載(配信)をめぐって直接取引するのではなく、多数のメディアに対してネットワーク型の広告配信を行う事業者に広告取引を委ねることを意味しています。
広告主が求める広告効果(成果)に対し、第三者配信事業者はネットワークする多数のメディアから、高い効果を引き出せるような条件でメディアを選択し配信を行います(第三者配信については → こちら)。
第三者配信に始まり現在のDSP/RTBに代表される“広告テクノロジー”については、すでに「『メディア価値』の希薄化にどう備えるか? 破壊的広告テクノロジーの登場がもたらすもの」で論じました。
一連の広告テクノロジーの進化が後押ししたのは、個別の媒体(メディア)価値を無意味とするような視線です。
味気なく言えば、広告主が訴求したい同じ消費者がいるなら、安いメディアを選択して広告を表示したい、がこれによって実現します。
どのような消費者に働きかけるのかをさまざまな指標を用いて設定できれば、広告宣伝担当者は、どんなメディアに広告を掲載すべきかなど、賭けに似たような選択をする必要がなくなっていきます。
このような動きが引き起こすのは、メディアと読者(消費者)をイコールで結びつけて見る視線の衰退なのです。
筆者がメディア寄りの視線で理解することを、広告業界人向けのブログ 業界人間ベム では、ずい分以前から次のように言い切っています。
インターネットではメディア(サイト)ごとに掲載面をベースに広告配信を考えることがナンセンスだということがある。ここは従来のメディアでのビークルごとにメディアプランニングする思考と最も違うところだ。
つまり、「どこに掲載するか」から「誰に配信するか」という考え方にシフトしていることと、広告レスポンスの高いところに自動配信して最適化を図るという発想をベースにしている。
業界人間ベムの視点は、読んでおわかりのように、広告を買う(広告主とその代理店)側に寄ったものです。
第三者配信とその後の広告テクノロジー進化の画期的な点は、上記引用にあるように、広告の配信(掲載)をプランする際に、まず媒体(メディア)ありきで考えなくて良くなったということです。
年収2000万円で50代の家族4名構成の男性に広告を表示しようと目標設定するなら、そのような読者を多く有するブランド性が高いメディアへの広告掲載を、まず考えるというのが従来の広告プランニングでした。
現在では、このようにターゲットする読者が多く出入りするもっとも低価格帯のメディアを選択することが可能です。
さらに大胆に割り切れば、“この広告に反応する読者がたくさんいるメディアを割り出してそこに広告掲載を最適化すればいい”と、多様なメディアへ広告配信を行った上で、そこから最大効果を生むメディアへと配信量を動的にシフトさせることも可能です。
しかし、本稿の読者はすでに気づかれているはずです。広告テクノロジーの進化の背後で、ある種の背理が動いていることを。
メディアという場の選択から、配信対象の選択という、広告主にとり“夢”のような時代が到来しているはずなのですが、悩みもまた同時に襲います。
最近、「広告配信先が選べなくて困る」という広告主が増えているという。……
記事は、Facebook 内に設置可能な Facebook ページに、スパム的なもの、目にしたくないものなど増えており、それらと自社の広告が並存するのに難色を示す広告主が増えていて、Facebook が善処を約束したという文脈にあります。
この Facebook=ソーシャルメディアという限定的な文脈を外して考えても事情は同様で、同種の問題は広くインターネットメディアの世界で起きています。
たとえば、先端的なファッションブランドは、一般的にいって、競合他社、というより“美的でない”広告との併存を極端に嫌います。
ブランドコントロールの視点にとり広告の意義は、“その商材を実際に購入するような消費者に出会う”ということに止まるものではありません。
推察するならば、ブランドが重要視する全円的な世界観の提示は、その消費者がブランドを選択する文脈として重要な作用をなすのです。
まさにブランドがブランドとして意義を持つのはこの世界観的な文脈からなのだとすれば、それを多様かつ雑多な価値観と混在させられないとの思いも理解できなくはありません。
さて、第三者配信のケースが増えたことで、広告主は自らの広告がどのようなメディアで掲載(配信)されているのか、判断がつきづらくなったとあります。広告主が望む文脈の担保がこれに断ち切られてしまうリスクが浮上します。
一方、メディア運営者もまた、自らのメディアが設置する広告配信枠にどのような広告主の広告クリエイティブが配信されるのか(事前に)分かりづらくなりました。
ここに、密かな共犯関係がメディア(運営者)と広告主との間に生じているのだともいいかえることができます。それはある種のモラルハザードというべきかもしれません。
メディア運営者は、自ら運用する広告配信用の枠を大量にさばくパワーを有する第三者配信用に売り渡してしまっています。
これにより、メディア(運営者)は自らのコンテンツ中にどのような広告クリエイティブが掲出されるのか、判断することができなくなりました。メディアの広告価値を上げるのか、下げるのか、メディア(運営者)は自らの判断を行使することができなくなります。
また、広告主は自らの広告配信のための意思決定機能を第三者配信へと委ねてしまっています。
これが引き起こす問題は、本稿冒頭で示したように、自らが好ましいと思えない場に配信されることで、自身の広告価値の毀損を生み出しかねない事態です。
そして、最大の被害者は、メディアの読者であるのかもしれません。
たとえば、つい先日、大型上場を果たした食品会社が圧倒的なボリュームで、筆者らの年代・性差をターゲットとして広告を配信した結果、訪れる媒体、訪れる媒体で「口臭」「精力減退」といったコンプレックスを派手に刺激する下品な広告がおびただしく立ち現れることになりました。
このような事態に遭遇し、辟易とさせられたのは筆者だけではないでしょう。
だとすれば、メディア(事業者)も広告主も、広告表示最適化の進展と引き換えにして、大切な読者の離反を潜在的に引き起こしているのかもしれません。
メディアを訪れる読者にとり、そこで目にする広告が有意な体験を喚起するとしたら、それはメディア(もしくは、そのコンテンツ)が読者の行動上の背景(文脈)に適切に働きかけた結果といえます。
この文脈を創造する、あるいは文脈に適切に関わる取り組みを放擲したメディアから順に、「『どこに掲載するか』から『誰に配信するか』という考え方」、すなわち、自らの価値を無にする視線を受け入れていくことになるはずなのです。
(藤村)
編集部より:この記事は「BLOG ON DIGITAL MEDIA」2013年7月22日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった藤村厚夫氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方はBLOG ON DIGITAL MEDIAをご覧ください。