「持たざる国」への道

池田 信夫

「持たざる国」への道 - 「あの戦争」と大日本帝国の破綻 (中公文庫)派手な戦争に比べて財政の歴史はあまり注目されないが、財政が戦争の原因になったことも多い。高橋財政は「国債の日銀引き受けによるリフレ政策で昭和恐慌を救った」などといわれるが、著者が前著で明らかにしたように、逆に日銀引き受けが軍部による際限ない財政拡大を生んだのだ。

太平洋戦争は「持たざる国」日本が「持てる国」アメリカに対して無謀な戦争を挑んだ、と思っている人にとってはこの題名は奇妙だろうが、1930年代なかばの日本は、英米もしのぐ世界で最高の景気だった。1937年には、日本の植民地向け輸出額はイギリスを抜いて世界一だった。その日本が財政の失敗によって軍部の暴走を許し、「持たざる国」になったのだ。

その最初が満州事変に始まる満州国の建設だった。大豆と石炭ぐらいしかなかった満州に30万人以上を移住させて建設した「満州国」の経営は、大幅な赤字だった。しかし軍は対ソ戦のために満州から華北へと勢力を拡大し、「華北分離工作」で日本軍の支配する独立国を築こうとし、中国戦線には240万人が動員された。これでは国内経済が衰弱するのは当然だ。

致命的だったのは、「円ブロック」を築くため華北に設立された中国連合準備銀行だった。その発行する連合銀行券は、日本円との為替レートを実勢の2倍以上の円高に固定する円元パー政策が実施されたため、連合銀行券を円に換えるだけで大きな利益が得られ、多額の円が日本から華北に流出した。この円は華北を支配していた蒋介石の軍資金となり、日本の経済力が落ちたが、国民は英米のブロック経済が日本を締め出したために貧しくなったと教え込まれ、対英米感情が悪化した。

池田成彬蔵相はこの円元パー政策をやめようとしたが、それは華北の日本軍の既得権となっていたためつぶされ、為替をはじめとする華北の経済は連合銀行の全面的な統制のもとに置かれた。そして軍は次第に南進し、上海事変などによってなし崩しに戦線を拡大した。これに対してアメリカは日米通商航海条約を破棄し、中国をめぐる対立が激化していった。

高橋の暗殺後、国内の財政規律も失われ、軍の求めるままに国債が大量発行され、それを日銀が引き受け、日中戦争が拡大していった。大蔵省の予算制約は失われて軍事費は無制限になり、1944年にはGDPの1.2倍以上にのぼった。こうした軍需融資には政府保証がついていたが、それも敗戦によって無効となり、終戦直後には物価が200倍以上になるハイパーインフレが起き、紙幣は紙切れになった。

軍の暴走を許したのは、首相の権限の弱い明治憲法の欠陥だった。昭和期になると、政友会と民政党は互いの腐敗を暴露するスキャンダル合戦で、「清潔」な軍部への大衆の支持を高めた。そして財政の歯止めがなくなったとき、軍部のために「輪転機をぐるぐる」回して紙幣を際限なく印刷したのが日銀だった。財政の論理はわかりにくく、その危機は見えにくいが、財政崩壊で滅びた国家は多い。1930年代の教訓は、今も重要である。