いま学校って何のためにあるのか --- ヨハネス 山城

アゴラ

ずいぶん前のことやが、井上ひさしセンセの小説で『偽原始人』という小説を読んだことがある。典型的な新聞連載用の小説で、そのときは面白かったが、今となっては内容は全然覚えておらん。そやけど、後書きに、妙に印象に残る一節があった。

「(君たちが一生懸命勉強したら日本国の)指導者予備軍に加えてあげるという宗教」……宗教という表現にショックを受けたのを覚えている。当時は、学歴社会という言葉が当然のように使われ、当然のようにボロクソに批判されていおった。しかし、考えようによっては、「努力して学歴を手に入れれば立身出世が約束されている」という、ある意味での思想が社会全体で共有されていた、幸せな時代やったのかもしれない。


前の記事で、「(偏差値)30のやつが40になっても、大して人生代わり映えせん」と書いたが、今では多くの人が同意してくれる話やと思う。つまり、「一生懸命」教の崩壊や。もっとも高度経済成長期の当時から、偏差値30の中学生が一生懸命やったらやった分、報われていたかというと、かなり疑問やが、これが宗教の宗教たるところやな。井上ひさしセンセはそこを見抜いておったんやな。

当時の教育は、この宗教がうまく機能していた。将来のために、大部分の子どもが、今と比べたらかなり真面目に勉強をしていた。個人的に報われたかどうかは別として、結果として、大量の質の良い中下層労働者を量産していた。これが製造業を支える形で、社会全体が発展して、大量のトリクルダウンが降り注いでいた。

貧しい子どもにとっても、金持ちの子と平等とまでは言えんが、今と比べたら、かなり大きなチャンスがあった。

けれども、バブルのころからこれがおかしくなってくる。大卒はもちろん、高卒でも就職には困らん。中卒は別の意味で重宝されて、生きる世界はいくらでもある。けれども、いくら頑張っても、親が都心に土地を持ってるヤツにはかなわない。なんか、雲行きが怪しい感じやな。

1990年代に始まる「失われた、n×10年(n>1)」に入ってからは、学歴とあまり関係なく若者の就職は、氷河期どころか全地球凍結ぐらいまで行ってしまった。高偏差値大学を出てフリーターになるやつが、ごろごろ出るようになった。一方、高校どころか、中堅クラスの大学までフリーパス化して、誰でも入れるようになってきた。「一生懸命」教は完全崩壊や。ちなみに、この現象は都会ほど激しい。どことは言わんが地方の県が一斉学力テストで好成績を叩き出すのは、情報の遅い所ほど「一所懸命」教が残っておる影響やと思う。

最近のワシは、前置きが長いな。話を前の記事の土曜授業に戻そう。記事にいただいたコメントで、「土曜授業は上位層の子どもには迷惑でも、中下層の学力の底上げには機能する」という反論が多かった。まずは、書いてくれたことにお礼を言いたい。ほんまに、おおきに。

実はワシも、最近まで、同じようなことを考えておった。大阪市の小中学校の様子を見ていて、考えが変わった。ざっくり言うと、増えた土曜の分に何をするかというと、道徳、体験学習、避難訓練……まるで行事のための日のような扱いや。関係者に聞いてみると、こうでもせんと現場の不満が爆発するという話や。「英数国の能力別補習をだけをガッチリするで」という学校を見たこと無い。

もっと見も蓋もないことを言えば、学校教員の側にも、持てるパワーを学力向上に集中させるインセンティブがない。だいたい、そっちの方面に興味や能力のあるやつは、塾や予備校で稼いどるがな。

そやから、ほとんどの学校は、だらだらと半日過ごしておしまいや。結局、学業・スポーツ・芸事なんぞで頑張る気のトップ層の足を引っ張ったあげく、中程度以下の学力の底上げなどタカが知れている。

土曜授業や夏休みの短縮に限らず、「一生懸命」教の支えを失った今の学校で、何か改革をしても、学力の向上には結び付かんということや。

今日は、これぐらいにしといたるわ。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト