「イエスは悪意のある訴えを受け、不公平な裁判の結果、十字架で殺された」として、「遅まきながらもナザレの男(イエス)の名誉回復を行うべきだ」としてオランダ・ハーグの国際司法裁判所に訴えた人物がいる。ケニアの弁護士ドラ・インディディス氏だ。
同氏によると、「当時の裁判は悪意の告訴に基づく。十字架の磔刑は違法だった」として、イエス裁判のやり直しを求めている。ちなみに、2000年前のイエスの極刑判決の不法を訴えられたハーグ側は「われわれは同件に関与する立場ではない」と答えたという。
イエスの十字架による「人類救済論」を教義の中核に置くローマ・カトリック教会がケニア弁護士の訴えを聞けば驚くだろう。そして「イエスが人類の全ての罪を背負って処刑されたことで、人類の救済の道が開かれた」と説明し、イエスの裁判の是非は問題にしないだろう。
当時の事実関係だけに限定すれば、ケニア弁護士の主張は合理的であり、妥当な訴えといえる。イエスは当時、公平な弁護士もなく、他の極悪者と同様に扱われ、極刑を受けた。新約聖書によれば、イエスには極刑(十字架)を受けざるを得ないような罪科がないことを当時のユダヤ属州のローマ総督ピラトも知っていたという。にもかかわらず、イエスという33歳の男の人権はローマ帝国の法の名によって蹂躙されたことは間違いないのだ。
一方、キリスト教会側は「人類の全ての罪を背負う使命を担っていたイエスは不義な裁判を受けながらも、不平を言わず潔く処刑された。イエスはその後、死に勝ち、復活してその教えを広げて行った」と説明、「イエスの十字架の死は神の摂理上、神の願いと一致していた」と述べ、イエスの十字架救済説を主張するだけで、イエスの人権問題については言及しない。
第3者の立場からみれば、どちらの主張がより合理的だろうか。「イエスの人権は蹂躙された」というケニア弁護士の主張か、それとも「イエスは十字架にかかって死ぬことで人類の救済の門を開いた」というキリスト教会の教えだろうか。
キリスト教会側に欠けているのは、「ひょっとしたら、イエスの十字架は避けられたのではないか」というシナリオを考える姿勢だ。イエスの十字架は神の栄光ではないのかもしれない。にもかかわらず、教会側は「イエスの十字架の死を称え、その十字架に人類の救いがある」と2000年間、言い続けてきたのだ。
その結果、どうだったろうか。イエスの十字架の死後、完全に救済された信者たちが生まれてきただろうか。聖パウロの嘆きではないが、誰一人として罪から解放された信者はいないのだ。イエスの十字架救済論の信頼性が揺らいでも不思議ではない(「イエスを十字架から解放せよ!」2013年4月21日参考)。例えば、ストラスブールの欧州人権裁判所(EGMR)は2009年11月3日、イタリア人女性の訴えを支持し、公共学校での十字架を違法と判決して教会関係者にショックを与えている。
ケニア弁護士の訴えは唐突な感じがするが、深刻な内容を含んでいる。2000年前の33歳の男の裁判が当時の法からみて正当だったのか。イエスの十字架が神の予定でないとすれば、なぜ33歳の男は十字架で磔されなければならなかったか、イエスの周囲で何が生じたのか──等々の問題が再び持ち上がってくるからだ。「イエスの十字架裁判」のやり直しは案外、多くの実りをわれわれにもたらすかもしれない。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年8月4日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。