この「タモリ論」なる新書に、書店で目が釘付けになった。ひそかにタモリフリークであった私は、ザ・タモリといわんばかりのこのタイトルに目を奪われたのだが、買おうか買うまいか大変悩んだ。。著者の樋口毅宏氏を全く知らない上に、若干風貌が妙である。数十秒悩んだ末に、メモがわりに写真だけ撮ると、そのまま書店を後にした。
それから1週間、なんと発売から1週間でこの本は6万部を売り上げたという。衝撃的なタイトルによって、人々は書店で私のように足を止めていたのだ。しかも、ネットニュースで見たところ、著者はかなりのタモリフリークであるようだ。これは・・・買わねばならないと近所の書店に走った。
※ランキング一位をひた走る「タモリ論」
日常のメタファーとしてのタモリ
著者によると、たとえ今現在タモリに興味がなかったとしても、いつかはタモリのすごさを味わうタモリショックを体験するという。私もタモリフリークの末席を汚す身なれば、むろんタモリショックを経験している。
タモリがゴルフプレー中に起こした事故によって笑っていいともを1週間休むという事件が起こった。それまでの「笑っていいとも!」における、私の中のタモリの立ち位置は豪華な添え物であった。マスターオブセレモニーではあるけれども、花形のトークは、SMAPや爆笑問題などのメンバーによって繰り広げられ、タモさんは神輿の頂点に飾られたただのお飾りであると思っていた。
しかし、その1週間のタモリ不在がもたらしたものは、どうしようもない欠落感であった。レギュラーメンバーが協力してテレフォンショッキング他のコーナーを仕切るという措置が取られ、タモリの不在によって改めて出演陣が異常に豪華であることに気づかされた。特定曜日のレギュラーメンバーだけでも、帯番組が持ててしまう豪華さである。
しかし、いくらメンバーが豪華であろうと、タモリ不在という洞穴のような欠落感はどうしても埋めることが出来なかった。このままタモリが帰ってこなかったらどうしようという、多少の恐怖さえ覚えた。しかし、タモリは翌週無事に復帰する。私(を含めたいいとも視聴者たち)は、タモリの欠落によって、その価値を知るというタモリショックを潜り抜けたのである。
タモリが一見お飾りのように見せて、匠の技でいいともをタモリ色に染めていたがゆえに、タモリ不在が目立ったのは事実である。しかし、その本質は、タモリの欠落がすなわち、日常性の欠落に繋がっていたからではないだろうか。
「笑っていいとも」は、アルタに棲むと言われるほどの常態性を見せつけている。放送が終わればあのセットもバラされるのだろうが、視聴者にとっては「笑っていいとも!」は常にスタジオアルタに存在しており、たまたまお昼の12時にチャンネルを合わせると目にすることが出来る連続した日常なのではないかという錯覚を起こさせられる。つまり、タモリは多くの人々から見て日常の象徴として存在しており、「永遠に続くと思われる単調な(そして、いささか退屈な)日常のメタファー」なのだ。
「タモリ論」の著者も、本書で以下のように人の生活と密着したいいとも論を語っている。
人はみな、あの日、あのときの「いいとも!」を心にかかえています。恋人が家に泊まって、初めて作ってくれた手料理を一緒に食べたときに見た「いいとも!」でもいいし上司をぶん殴った後に駆け込んだ定食屋で見た「いいとも!」でもいい
いいともにおけるタモリは知らないうちに、日常性のメタファーとして私たちの心に存在しているのである。
タモリは本当に全てに絶望しているのか
「タモリ論」では、タモリを絶望大王として評している。樋口氏はポストセブンの取材に以下のように答えている。
深夜番組担当のアングラ芸人を自認していたタモリが、突然の抜擢によって毎日数百万人が視聴する生放送の司会を引き受け、それを30年以上も続けている。まともな人ならとっくにノイローゼになっていますよ。
でも、タモリは狂わない。それは一体なぜなのか。そして一つの答えに行きつきました。
タモリは、自分にも他人にも何一つ期待していないのです。タモリは、すべてに「絶望」している。その絶望を引き受けながら『いいとも!』の司会をし続ける彼の狂気を、みなさんに知ってほしかった。
本書を全て読むと、釣りとは言わないがいささかこの表現は過剰である。実は本書はタモリというよりは、それを含めたたけし、さんまのビック3について書かれているのだが、この前置きは結論に繋げるためのレトリックとしての役割を果たしているような気がする。
私が見たタモリは、絶望大王というよりは、「好き嫌いがはっきりした冷静すぎるおちゃめさん」である。そして、この「おちゃめさん」に比重を置きたいと思う。なぜならば、私がタモリに惹かれる最大のポイントがここだからである。
しかし、先に「冷静すぎる」というワードについて解説したい。幾多の芸能人に指摘され続けてきたことだが「ミュージックステーション」におけるタモリは、非常にやる気がない。以前知り合いのコンサルティングの人が「タモリは天才だ。あれはマーケティングだ。番組を見ている層が若いから、文脈のない単発的な言葉を出すことによって、番組の温度感を調整している」と言っていたが、私は「タモリさんが本当にミュージックステーションに興味がないだけ」だと思っている。
テレフォンのゲストにも「タモリさん、いいとも長年続いてすごいですね」という言葉を言われるたびにタモリは「いや、俺、アルタに来るのが嫌じゃないからやってるだけだから」という返答を何度も返している。つまり、タモリの中では明確な好き嫌い(電車は好きだけど、ミュージカルは嫌い)があるのだが、冷静すぎるため退屈な作業の反復行動についての沸点が低いのである。一言でいうと飄々としているのだ。
そして、タモリの最大の魅力はおちゃめであることだ。本書にもあったが、タモリはよく悪戯をする。さんまの家で行われた餅つき大会に招かれた時、息子がタモリが来るのを楽しみにしたのだが、タモリは何故かオールバックを全て前に下ろしてサングラスではないメガネをかけるという、変装スタイルで現れた。そのまま気づかれずに座っていると、息子が「タモリまだー?」と声を発し、隣にいたタモリは「もうすぐ来るよ。」と言って、ニっと笑ったという。(※8/5追記:夫妻のお子さんはいまるちゃんのみだと勘違いしたので、表記をいまるちゃんにしていましたが、大竹しのぶには前夫との間に息子がいたというコメントを頂いたので、訂正しました)。
その話をさんまからされた時も、タモリはカッカッカと笑いながら「しのぶちゃんのお母さんの反応がまた良かったよね。それ見て笑いながらヒッヒッヒって横切って行ったもんね」と付け加えて満足げであった。
この他にもタモリは山のような悪戯をしかけては、カッカッカと笑っている。さらにタモリのホームであるタモリ倶楽部では、いかんなくそのおちゃめ性を発揮している。電車の回などでは故原田芳雄氏とともに少年のように目を輝かせていた。
と、いうことで常に心の片隅に「タモリさん」を抱えながらも、文章にすることは避けてきた私である。タモリを文章にすることはタモリを相対化するということだが、相対化出来ないのがタモリである。冒頭にも書いたがタモリは人々にとってある種のメタファーであるため、メタファーとして存在するタモリは相対性を失ってしまうからだ。
そのパラドックスにより、長年私の思念の中で浮遊していたタモリさんについて、書かざる負えなくなったのは「タモリ論」のおかげである。
樋口氏が書いたタモリ論も、わたしが抱くタモリ論も、タモリというメタファーを自己に引き戻して解釈したものであり、十人十色のタモリさんがいるはずである。
ということで、日本じゅうにはタモリ論を読み終えた人たちの数だけ、それぞれのタモリ論がうずまいているはずだ。あなたには、どんなタモリ論がありますか?
最後に、故ナンシー関氏が「信仰の現場」の取材で訪れた「笑っていいとも!」収録体験の結びの言葉を持って締めたいと思う。
しかし、汲めども尽きぬ泉のごとくとでも言うんでしょうか、そんなに「笑っていいとも!」を見たいと願う人がひきも切らないとは。毎日毎日150人。世の中に、人ってすごくいっぱいいるんだなあ。なんだそれ。
(@toriaezutorisan)
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