「虹」について ー 夏休みの随想

矢澤 豊

ゲリラ豪雨に濡れて、また連想のたががはずれたので、一筆啓上。

洋の東西でイメージが正反対なものに「虹」がある。


旧約聖書の世界(というと、とりもなおさずユダヤ教、キリスト教、イスラム教を含む)においては、「虹」はノアの箱船のエピソードのしめくくりにでてくる。四十余日つづいた大雨の後、空に現れた虹は、神様が地上の生き物に対して二度と大洪水を起こさないという誓いのシンボルであり(創世記9章13節)、ひいては希望のシンボルとして扱われる。

中華文明においては、その字体が表すように、「虹」とは虫の一種だ。

「虹は古くは天界に住む竜形の獣と考えられていた。その雄を虹といい、雌を蜺という。(...)天より降って河水を飲む姿ががそれである(...)。」(白川静「字統」)

このような妖気ただようゲテモノが「希望のシンボル」であるわけがない。

「(...)また虹があらわれるのは、陰陽和せず、婚姻錯乱し、男女の道が失われるからだともいう。〔詩〕」(同上)

このほかにも、「史記」において、燕の国の太子である丹が、臣下の荊軻をして秦の嬴政(後の始皇帝)を暗殺しようとした時、「白虹貫日」、つまり「白虹日を貫けり、太子懼ぢたり」という段があり、太子は暗殺計画の失敗を予感する。

この史記による故事は、本邦の「源氏物語」にも本歌どりされていて、「賢木の巻」において、光源氏を落としめようという源氏の異母兄である朱雀帝(というよりは、その実母である弘徽殿の女御)の一派に属する頭の弁が、源氏へのあてこすりにこの故事を引用する。

史記の出典だけをみれば、これは臣下である源氏が朱雀帝にとってかわろうとしているという謀反の疑惑をおしつけようとしているとも読めるが、よりオリジナルの「詩経」における「男女の道の乱れ」の出典までさかのぼると、源氏と彼の継母であり故帝の后であった藤壷の中宮の間の不倫関係を仄めかしてもいるようであり、紫式部が工夫をこらしたところなのだろうか...などというのは考え過ぎだろうか。