8月2日の日経新聞の一面に「残業削減へ手当拡充」云々言う大きな見出し付きで「伊藤忠の新しい賃金制度導入」の記事が出たのには驚きました。
一民間企業の新しい残業賃金制度の変更などと言う小さな話題が、全国紙の一面を飾るなどとは「記事の夏枯れも相当酷いな!」と言うのが驚いた理由です。
それ以上に驚いたのが、その後の反響の大きさです。
そこで、もう一度記事を読み返して見ますと、新しい残業賃金制度には、海外で事業を展開する多くの日本企業の警鐘になりそうな疑問に思える箇所が幾つか見つかりました。
但し、私の疑問は、8月7日のブロゴス記事「早起きは5割増しの得・・・的施策への疑問」とは大分異なります。
ブロゴスの記事にある「ワークスタイルを強制されることが従業員にとっての幸福につながるのか?」と言う疑問は誤解で、日経の記事に依れば、新しい価値への「誘導」に過ぎず、残業稼ぎの為に早朝出勤までしたくなければ、しなければ良いだけではない話です。
十人十色の個性化時代の今、「ワークスタイルを強制されることが従業員にとっての幸福につながるのか?」と言われても返答に困ります。幸い、日本では職業の自由は保障されていますので、自分の幸福への道は自分で選ぶしかありません。
いずれにせよ、民間企業である以上、法と労働協約に触れない範囲での賃金雇用制度の選択は、企業の自由であるべきで、こんな小さな経営上の選択も出来ないようでは、経営はできません。
私が日経の記事で伊藤忠の新制度に疑問を感じた点は、:
•海外勤務者も含む、全正社員が対象。
•午後10時以降の深夜残業を禁止。午後10時以降は職場を完全消灯する。
•国際商品取引や海外貿易なども例外を設ける可能性はあるが、取引を極力現地に任せることなどで、残業を減らす。
と言う箇所でした。 その理由は :
•各国で全く異なる労働規則や企業毎に異なる労働協約を考えますと、この制度を海外勤務者も含む「全正社員を対象」とする事は無理です。
例えば、米国の場合、残業手当を支給される対象は一部の例外を除き「時給勤労者(アワリーワーカー)」に限定されており、その一般労働者(アワリーワーカー)へのヴィザの支給は厳しく制限されています。
従い、伊藤忠の米国駐在員は全員サラリーベースの従業員で、残業手当は支給されませんし、支給すれば当然ビザ発給条件に違反します。
だからと言って、日本で勤務する社員との公平(人事部用語)を維持する為に、日本人得意の小技を使い、駐在員だけは非公式のタイム・クロックで残業時間を計り、手当ては日本で支給するなどと言う一昔前の大手の日本企業が使った手段に出れば、米国政府からはビザ法違反と脱税、現地労働者からは差別だと訴えられ、再犯者として厳罰を受けることは間違いありません。
伊藤忠に限らず、現在の大手商社の多くは、かなり大型の現地企業を買収して、駐在員が現地従業員と肩を並べて仕事をしている現実を見ますと、この項目は大幅な修正無しには実行不可能では?と言う疑問が湧きます。
•この項目で最も気になるのは、日本国内での「サービス残業」の発生です。私事に亘りますが私が永年奉職しお世話になった伊藤忠が、サービス残業の発生により、ブラック企業の仲間入りする事は避けて欲しい物です。
又、成果報酬が常識の欧米で、10時以降は消灯して仕事をさせないとなれば、会社の妨害で成果が出なかったと言う抗議を受けたり、製造現場を持つ現地企業での納期遅れは現地社員の責任ではなく成果報酬は納期が間に合った前提で支払い、顧客には罰金を払う事態になる可能性すらあります。
更に、他企業との合弁企業の場合を考えますとこれも「例外」扱いで、逃げるしかないのでは?
•この項目も、日本ではサービス残業問題、海外では労働訴訟が発生する可能性大です。
日本では仕事の成果の測定が不明瞭な為(その最大の原因は、経営トップから部課長まで、部下に何をして欲しいのかを具体的に職務記述書(Job Descriptions)に書けないからですが)成果報酬制度が普及しませんが、欧米ではサラリーベースの従業員には残業手当が無く、成果報酬制度が常識ですから、勤務時間を制限競れれば、会社側が従業員の成果を妨害したとして訴訟される可能性すらあります。
伊藤忠の岡藤現社長は、私は直接の面識はありませんが、風聞するところ、品格とか教養面ではとかく噂の多い人ですが、伊藤忠でも伝統(前垂れ商法)的と言われたな繊維部門の体質を「ブランド重視の知識経営」に見事に変え、業界では一人勝ち状態にした逸材だと聞きます。一方、駐在経験もなく外国語にも弱い商社としては全く異質な経営者で、ご自身の好みもあってか、楽天とかユニクロとは正反対に、社内の英語の会議も廃止するなど、ユニークな経営者でもあります。
日本で伊藤忠の「新しい賃金制度」が話題になった時と同じくして、8月5日のニューヨークタイムズに「アマゾンの雇用制度がドイツの組合慣行(カルチャー)と大衝突」と言う大きな記事が出ました。
その記事の中には、アマゾンは、米国政府の改善命令が出るまで、ウエア-ハウス(倉庫)に冷房もつけず、労働者が熱中症や疲労で倒れそうになると、現場に配置された救護士が看護室に担ぎこむなど、行き過ぎた費用削減策で米国ても悪名が鳴り響いている企業ですが、ドイツでもアマゾンの現場従業員を「小売労働者」より格安な「倉庫労働者」の分類に入れて労賃を節約したとして、ドイツの労働組合は「ここはドイツだ、米国の労働慣行を勝手に持ちむな!」と抗議してストに入ったと言う内容もありました。
IT技術の進歩で、経営の範囲がグローバルナになればなるほど、本国だけで通用する価値観は相対的に小さくなり、「郷に入っては郷に従え(When in Rome do as the Romans do.)」と言う古くからの教えが生きている事を実感したこの二つの記事でした。
伊藤忠も,国際慣行の違いには注意して欲しい物です。
最後に余談になりますが、ここで国際企業と勤務時間に関するある会社のエピソードをご紹介して本稿を終わりたいと思います。
1961年に売上げ7億6千万ドル程度の中堅企業であったITT社International Telephone and Telegraph)の社長に就任したハロルド・ジニーン氏は、社長退任の1970年までに350社の企業を買収し、売上げを1兆7千億ドルの国際的な大企業に成長させた伝説の経営者ですが、何か重要な事が起こる度に、真夜中でも担当者を会社に呼び出し対策を練ることでも有名な経営者でした。
ある時、幹部の夫人が「会議の時間はもう少しまともな時間にお願い出来ないでしょうか?」と苦情を言うと「ITTは國際企業で、会議の時間は何時も案件の起こった現場ではまともな時間なのです」
この話は、国際企業の先鞭をつけた経営者の逸話として、当時は可也話題になったものです。
2013年8月8日
北村 隆司