明治維新は、驚くほど低コストで実現した「革命」である。たとえばフランス革命の死者は60万人以上、その後のナポレオン戦争を入れると200万人以上だが、明治維新の死者は西南戦争を入れても3万人強にすぎない。この奇蹟的な革命は、何によって可能になったのだろうか?
その一つの原因は、拙著でも紹介した尊皇攘夷思想である。日本に輸入された朱子学は、最初は幕府を正統化する御用学問だったが、そのうち天皇こそが正統な「天子」であり、幕府はその地位を簒奪した「逆臣」だという水戸学の尊皇思想に変質してゆく。
ただ著者によれば、水戸学の本来の思想は、他国の脅威を排除して国家を統一するためには非公式の幕府の権力だけではだめで天皇家の正統性が必要だというもので、革命思想ではなかった。ところが徳川家定の後継将軍として水戸家が一橋家の慶喜を推したのに対して、家定の側近だった井伊直弼などがこれを将軍家を紀州から奪う陰謀と誤解し、慶喜擁立派=尊皇攘夷派を弾圧した。この「安政の大獄」が尊皇攘夷派を蜂起させ、大政奉還という結果になった。
しかし大政奉還や王政復古というのは、形式的な権威の委譲に過ぎない。明治維新の最大の謎は、廃藩置県という幕藩体制の自己否定が、ほとんど何の抵抗もなく実行されたのはなぜかという点だ。これを著者は、リデル=ハートの間接アプローチとして説明する。
廃藩置県の前に、まず版籍奉還が行なわれた。江戸時代にも、将軍が代替わりしたとき、幕府がすべての大名から統治権(領知判物)をいったん回収して再交付する手続きをとったという。内閣改造のとき、再任の大臣もいったん辞表を出すようなものだ。明治維新のときは、統治権が徳川家から天皇家に移ったのだから、領地(版図)と領民(戸籍)をいったん天皇家に返したのだ。
そして今までの「家」による非公式の統治権の代わりに「藩」という制度を正式に設け、大名をそのまま藩主にしたが、税収の9割は中央政府が取り、藩主の収入は私的な「家」の部分だけになった。藩主は引き続き統治権を維持できたので抵抗しなかったが、下級武士の多くは失業した。
こうした上で、いくつかの藩をまとめて県にしたのが廃藩置県で、このときも何の抵抗もなかった。失業した不平士族は各地で反乱を起こし、廃藩置県をやった西郷隆盛みずから西南戦争を起こしたが、もはや大勢は決していた。西郷がなぜ西南戦争を起こしたのかは謎だが、自分も犠牲になることで士族の顔を立てたのだろう。
さらに著者は、尊王攘夷も「尊皇」という誰も反対できない建て前を掲げて近代国家を建設する間接戦略だったのではないか、と推測している。もちろん当時の指導者がそこまで考えたわけではなく、いろいろな幸運が重なって、経済学でいう「意図せざる結果」として、わずか10年あまりで「無血革命」が実現してしまったわけだ。
こう考えると、日本が停滞から脱却するには、莫大な量的緩和と同時にバラマキ公共事業をやり、ハイパーインフレで国債を紙屑にして人々を「太平の眠り」から覚ます――というアベノミクスは、なかなかよくできた間接戦略ともいえよう。ただし明治維新のときは、この幸運を新しい統治機構の建設に結びつける指導力と知性をそなえた「元勲」がいたが、安倍政権には残念ながら元勲が欠けている。