戦前戦中をめぐる日本人の謝罪はなぜ通じないのか --- ヨハネス 山城

アゴラ

8月15日、終戦記念日が終わった。戦争責任の話が盛り上がる季節やが、マスコミ報道を見る限り、この方面の話題は下火なっている気がする。今更、閣僚が何人、靖国に参拝しようが、非難するほうも擁護するほうも気合いが入らんこと、おびただしい。売名行為兼選挙運動という気もするが、わざわざ抗議に来はった某国の議員さんらが、わずかに気をはいていたぐらいやった。

日本では戦争を巡る議論は必ず混乱する。たとえば、何らかの戦争責任を謝罪しようとするヤツおると、必ずそれに水をかけるヤツが出て来て、熱いだけで生産性の無い議論が始まる。


謝罪されるほうからすれば、こんな迷惑な話はあらへん。謝られるつもりでうっかり話を聞いておると、いきなり侮辱されたりする。頼むから、謝るのかケンカ売るのか、決めてから来てくれと言いたなるがな。

少なくとも国家に関しては、謝罪というのは、ワシはひとつの攻撃やと思う。相手の激怒、嫌悪、復讐心などが機能しないように、適切な方法で行ってこそ意味がある。そやから謝罪戦略という言葉まであるわけや。

もうひとつ謝罪には重要な機能がある。第三者の支持の取り付けや。「あれだけ謝っとるんやから許したれや」という話やな。

「謝罪とはもっと道徳的なものや。こころから許しを請うことが平和をもたらす」という考え方もあるやろうが、この立場からは、80歳未満の日本人は一切、戦争責任に関して、謝罪をしてはいかんことになる。自分のやったことでもないことを、心から謝ったりしたら、かえって誠意を疑われるで。

あくまで、相手との関係を手打ちにもっていくための、働きかけと考えるべきなんやろ。これなら80歳未満でもできる。

だいたい、人生をムチャクチャにされたと思っている人間に、こっちの都合で突然謝って、許してもらえることなど奇跡に近い。それでも、自分の気にいった方法で、今すぐ謝りたい、というのは一種の自己満足の追求でしかないがな。

何もせんほうがお互いのためになる、という場合が多い。

謝罪の最終的目標は、有利な形での「手打ち」や。「手打ち」とは何か。ワシが定義をするなら、「今後、そのことを理由に、単独行動をしない」という合意を関係者一同がすることや。「無かったことにする」のとは意味が違う。

合意である以上、ひっくり返すヤツが出てきたり(韓国の対企業賠償)、アウトサイダーが文句をつけてきたり(対北朝鮮への補償問題)、する可能性は常にあるが、これをきちんとやれるかどうかで、身の安全がまるで変わってくる。

さらに言えば、一度、手打ちをしたら、多少不満でもそれに基づいて行動し、折に触れた謝罪の追加などでメンテナンスをして、手打ちが機能するように注意しておくほうが、得な場合が多い。簡単に手打ちをひっくり返す北朝鮮が、世界中から全く信用されていないのは、その極端な例や。

日中の例で言えば、「日本人民は悪くないが一部の軍国主義者が悪かった」、という形の手打ちをひっくり返しに行くのは、危険極まりないことや。第一に、手打ちの維持ために動いてくれている親日派の顔を潰す(どころか、首を危なくする)ことになる。第二に、日本人は「手打ち」をひっくり返すやつや、というレッテルを貼られる。

そうまでして、過去の軍人を正当化することが国益にかなうのか、靖国周辺の人間には考えてもらいたいもんやで。

ドイツの例を考えよう。ご存じナチス。逃亡した戦犯の追跡に始まって、ユダヤ人遺族への補償。そればかりか、いまだにナチスを支持する言論自体が禁止されている。自由主義国家では本来あってはならんことやけど、ドイツ人は、戦後、一貫してこれをやってきた。

そして、その成果として、ユダヤ人からの復讐の正当性を押さえ込むことに、成功したわけや。ドイツ人やドイツ国家への暴力的な復讐を企てるユダヤ人は皆無やし、やったところで、第三者の支持は得られず、単なるテロの烙印を押されて終わりや。

言論の自由を一部放棄するという「指詰め」までして、謝罪戦略を貫徹したドイツ。ワシ個人としては、こういうやり方はあまり好きではないが、いまだに朝鮮半島とゴタゴタしとる日本人と比べて、やつらは遙かに得をしていると思う。ドイツ統一に邪魔がはいらなかったのも、ここいらへんの処理の成果が大きいんとちゃうかな。

朝鮮半島の植民地支配と言っても、個人的に善意を持っていた日本人は山ほどいたし、日朝同祖論まで唱えられていた。国を挙げて、ユダヤ人への嫌悪に燃えて、同祖論どころか、ユダヤの血統を汚物扱いまでしたドイツ人。彼らが日本人よりも謝罪に成功したのは、ネオナチなど、邪魔になりそうな連中を徹底的に叩いたからや。

大戦中の戦術の反省で、よく出てくる言葉に「戦力の逐次投入」ということがある。要は、「何かやるときにケチケチ動くと、かえって高くつくで」という話なんやが、謝罪でもこれはあると思う。

たとえば、「村山談話への批判は犯罪とする」という刑法改正ぐらいのこと、やっておくべきやったと思う。謝罪というのは、相手や第三者が驚くぐらいやって、はじめて効果が出るもんや。刑法改正は無理にしても、国会議員クラス以上の要人は、数年間は批判めいたことを言わん。ぐらいの合意はしておくべきやった。

逆に言えば、そのくらいの根回しもできんような政権なら、エエ格好して、あんな、ややこしい談話を出すべきや無かったということになる。

誰ぞが「10」謝って、身内が「1」ケチを付けたら、差し引き「9」の謝罪になると思うのは甘すぎる。実際には「15」ぐらいの侮辱となって相手に届く。そやから、意思統一のできない集団が、謝罪なんかするべきやない。何を言われても、謝罪も反論もせずに黙っておるのが正解やと思うがのう。

今日は、これぐらいにしといたるわ。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト