「空虚な中心」は変えられないのか - 『日本の起源』

池田 信夫
日本の起源 (atプラス叢書05)
東島 誠 與那覇潤
太田出版
★★★★☆



本書のテーマは、私が『「空気」の構造』で論じた問題と同じ、日本社会の不思議なガバナンスである。特に最高権力者を「みこし」としてまつり上げて「空虚な中心」にしてしまう構造が、平安時代から現代まで形を変えて続いていることが対談の一貫したテーマになっている。

しかし奇妙なのは、丸山眞男が頻繁に引用されるのに、彼のこのテーマについての晩年の論文「政事の構造」が参照されず、もっぱら「忠誠と反逆」が論じられていることだ。このため、天皇と摂関家の分離が西洋の教皇と王権の分離と同列に語られたりする。これは丸山がもっとも対極的な構造としたもので、教皇は普遍的価値を体現しているが、天皇は臣下にまつり上げられたタコツボ社会の「まとめ役」にすぎない。

この構造が、もっぱら権力内部の抗争を緩和する「バッファー」として語られるのも違和感がある。その起源はもっと基礎的な集団の中にあり、日本では「自然な共同体」が戦争で破壊し尽くされず、村のゆるやかな連合体として国家ができたためではないか。その原型を東島氏は一揆の「傘連判」に見出し、與那覇氏は「江戸時代的」としているが、むしろ起源は新石器時代かもしれない。

明治憲法が権門体制と同型だとか、日本で二大政党がうまく行かない原因は、みこし型の二重構造と相容れないからではないかという指摘はおもしろいが、その構造分析が不十分で歴史学的トリビアが多すぎるため、こういう古代的な構造がなぜ現代まで続くのかがよくわからない。

高度成長期がアメリカ主導の例外的な時代で、70年代以降は「日本型」に戻ったというのは同感で、今やこの「江戸時代的システム」の賞味期限が切れて、ガラパゴス化や「決められない政治」をもたらしているという時代認識も、與那覇氏と私の共著『「日本史」の終わり』と同じだ。

しかし最後がサブカルチャー論みたいなもので終わってしまうのは物足りない。もちろんその答がわかっているわけではないが、「空虚な中心」はいつまで続くのか、それを変える試みは挫折せざるをえないのか、といった問題はもっと具体的に論じられてもよかったと思う。

なお小さな間違いとしては、山本七平のとなえたのは「人間教」ではなく「日本教」である。