再稼働の「自粛」という全体主義

池田 信夫

編集部として書いたように、松本さんや仲宗根さんが「山城さんが執筆資格を失う」というのは誤解で、これは投稿手続きの変更にすぎません。それとは別に、山城さんに代表される幼稚な再稼働反対論は広く見られるので、ここで私個人としてコメントしておきます。


彼の「事故時の補償を考えたら、今の原子力発電は経済的に合わへん」という類の話は、以前から繰り返されていますが、私のブログでも書いたように、大災害の確率を1と考えたら、どんな事業も成り立たない。震災の直後に、すべての原発を止めろと主張していたのは社民党と共産党だけで、民主党政権は一笑に付していました。

ところが菅首相が浜岡を止め、玄海の再稼働を阻止したことから、なし崩しに再稼働できなくなった。経産省はストレステストをさせて動かそうと考えたようですが、いったん止めたことで世の中の「空気」が変わり、ほとんどの原発でストレステストが終わっても再稼働はできないまま、今に至っています。

定期検査を終えた原発を止めることには、何の法的根拠もありません。原子力規制委員会の安全審査は新設する設備の審査であって、既存の発電所の運転を審査するものではないが、自民党政権もこの問題にはふれようとしない。これは何かに似ているな、と思っていたのですが、丸山眞男が昭和天皇の崩御の前の「自粛の全体主義」について次のように書いているのを読んで、思い当たりました。

多くの論者が、昔の天皇制からちっとも変わっていない、というような批評をするが、私にいわせればとんでもない、大変りなのである。[大正天皇の崩御のときは]小さな村の祭りまで「自粛」するというような珍現象は、私の記憶するかぎり全くなかった。[…]病気の平癒を祈る臣下の内面的な心情が失われるのに反比例して、あたりを伺いながら、「まあこの際うちもやめておこう」という偽善と外面的画一化とが拡大したのが今度のケースなのである」。(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」丸山眞男集15)

25年前の異様な雰囲気は、私も覚えています。本来は危篤のとき発動する緊急報道体制をNHKが誤って入院した1988年9月に発動してしまい、それから毎日、橋本大二郎さんがニュースで病状を伝える異常な体制が4ヶ月近く続きました。毎日、NHKだけで100人ぐらいのチームが皇居の前にテントを張って、「その瞬間」をカメラに収めようと徹夜で待機し、日本中のあらゆるお祭りや祝賀行事が「自粛」されました。

今回の再稼働「自粛」も同じです。丸山もいうように、誰も1000年に1度の大震災がすぐ起こるとは思っていないし、福島のような事故が再発するとも思っていないが、うるさく騒ぐ連中がいるので「まあこの際うちもやめておこう」という偽善と画一化が2年以上も続く。これはかつての「自粛」騒動を上回る、日本的な全体主義の根強さを示す出来事として歴史に残るでしょう。

この「空気」を変えられるのは政府だけですが、安倍氏はこれまでにも増して空気を読む首相で、消費増税は「4~6月期のGDP速報をみて判断する」はずだったのが、60人の「点検会合」をやってもまだ決められず、今度は10月の日銀短観を見て決めるという。與那覇さんたちが『日本の起源』で論じた「空虚な中心」は、狭義の天皇制の問題ではなく、まさに日本人の「古層」に深く深く埋め込まれた構造なのでしょう。