安倍首相が福島第一原発を視察し、東電に第5・6号機を廃炉にするよう要請したという。NHKによれば「事故対処に集中するため」だというが、5・6号機は事故当時は定期検査中で損傷しておらず、技術的にはただちに廃炉にする必要はない。これはオリンピック招聘の際に国際公約した「政府の責任で処理する」という姿勢を強調する政治的スタンドプレーだろう。
東電は「年末までに判断したい」と答えたというが、この「要請」は法的根拠のない行政指導であり、東電が従う必要はない。廃炉には巨額の費用がかかるので、国がそれを強要するなら損害賠償が必要だ。そうでなければ、正式の経産省令で廃炉にする命令を出し、その法的根拠を明らかにすべきだ。根拠が示せなければ、思いつきの「要請」で浜岡原発を止めた菅元首相と同じである。
あらためて、日本は法律の軽い国だと痛感する。先日の記事でも書いたが、近代社会の根本原理は民主主義ではなく法の支配であり、このことを初めて指摘したのがマキャベリである。賢明な君主が臨機応変にルールに縛られないで民のために善政を行なう、という徳の支配には、その君主が賢明でなかった場合の歯止めがない。それに対して「法律を犯そうとする有力者に対抗して法を執行する制度」としてマキャベリは共和主義を主張したのだ。
日本は厳密な意味では共和制ではないが、立憲君主制を主張したホッブズやロックにもマキャベリの原則は受け継がれ、これを古典的共和主義として完成させたのがヒュームだった、というのが坂本達哉『ヒューム 希望の懐疑主義』の指摘である。
古代ギリシャなどの古典的共和制では奴隷が家計を維持し、労働から解放された市民が直接民主制を行なったが、近代においては市民は政治に専念できないので、選挙で専門家を選ぶ代表制をヒュームは提案した。したがって民主制は、近代社会に不可欠ではない。むしろアメリカ建国の父は、ヒュームやバークの影響を受けて、大衆が政治に直接参加しない憲法を起草したのだ。
しかし共和制のコアが法の支配であるという点は、アリストテレスやキケロから現代まで一貫している。それは法の支配がなければ、すべての人が何者かに支配される奴隷になるばかりでなく、法を無視して大衆を扇動する僭主があらわれて国家を滅ぼしてしまうからだ。理想的な民主制として語られる古代アテネは、100年も持たなかった。
ポピュリズムに依拠した「超法規的要請」が政治や経済を大混乱に陥れることは、民主党政権で日本人も十分体験したはずだ。菅直人氏は日本経済を破壊した僭主だったが、新潟県の泉田知事はそのミニチュア版だ。安倍首相は、こうした衆愚政治をまた始めようというのだろうか。