新潟県には技術基準の許認可権はない

池田 信夫

たびたび泉田ネタで申し訳ないが、東電の利用者として、彼の違法な介入で柏崎刈羽原発が無駄に止められるのは許しがたいので、あらためてコメントしておく。


新潟県は日経新聞の社説

泉田知事が東電に求めた申請の条件には、疑問が残る点がある。重大事故が起きたとき、放射性物質を外部に放出するフィルター付き排気(ベント)の実施に、県の事前了解が必要としたことだ。重大事故への対応は一刻を争うだけに、それで迅速かつ適切な初動ができるのか。

という指摘に対して、県のホームページで「新潟県が条件とした事項は、了解が得られない限りフィルタベント設備の運用開始ができない、という趣旨」だと反論しているが、同じことだ。県がベントの運用を了解する前に事故が起きたらどうなるのか。

根本的な問題は、新潟県には原発の技術基準に介入する権限はないということを泉田知事がいまだに無視して、思いつきでいろいろな条件をつけていることだ。原子力規制委員会は国の三条委員会であり、各省にも介入できない強い独立性をもっている。全国の県や市町村が勝手に技術基準に介入したら、永遠に安全審査は終わらない。

このように「地元」が国より強い日本の状況は、川島武宜が『日本人の法意識』で指摘したように、日本では所有権の概念が定着していないため、身近にいる人に権利があるという通念が強いことに原因がある。戦時中は、疎開先の家に預けた着物を勝手に着たり、石鹸を使ってしまったりすることが当たり前だったという。

ここでは所有権という抽象的な法が意識されず、身近にあるものを互いに使う慣習法が受け継がれている。いくら「法令で決まっている」といっても「そんな形式的なことより県民の安心が大事だ」という。それなら「泉田のわがままで電気代が上がって会社がつぶれた」と怒る東京の中小企業経営者が新潟県庁に放火したら「利用者の声」として許されるのか。

このような紛争を起こさないために、近代社会では「身近にいる人」とか「声の大きい人」に権利を帰属させるのではなく、法に定める人(あるいは機関)にのみ権利があると定めているのだ。それが法治国家の基本的なルールだが、頭の悪い知事には理解できないのだろうか。