久保田宏
東京工業大学名誉教授
(IEEI版)
『日本は再生可能エネルギー大国になりうるか』への疑問
福島原発事故後、民間の事故調査委員会(福島原発事故独立検証委員会)の委員長をなさった北澤宏一先生の書かれた著書『日本は再生可能エネルギー大国になりうるか』(ディスカバー・トゥエンティワン)(以下本書と略記、文献1)を手に取って、非常に大きな違和感を持ったのは私だけであろうか?
著名な著者が、いまのタイミングで出版された著書であるから、福島事故の原因を厳しく調査・解明した上で、いま、多くの国民が願っている脱原発に必要なエネルギー政策の道筋を示して頂けるものとの私の期待を裏切ったのが、表記した本書の書名である。
本書では、先ず、第1章で、民間事故調で学んだこととして、原子力の事故リスクを明らかにした上で、世界が注目するなかで、大きなリスクを背負う原発への依存を選択すべきでないとした上で、第2章では、原発事故における科学者・技術者の責任問題も厳しく追及していて、高い評価が与えられる内容になっている。ところが、このリスクの大きい原発電力の代替には、再生可能エネルギー(以下再エネと略記)しか用いられないとして、第3~5章まで、本書の6割以上の紙幅を費やして、「脱原発のためには日本が再エネ大国にならなければならないが、それが可能である」と主張し、それが、本書の書名になっている。
新エネルギー産業が発展する?
具体的な再エネ大国への方策として、ドイツの先行事例にならい、再エネ推進のための「再生可能エネルギー固定価格買取制度(以下、FIT制度と略記)」の適用により、市販電力料金の値上げによる国民の経済的な負担金額5兆円を投資すべきとしている。
さらに、それを発展させて、国内の全てのエネルギーを自然エネルギー(国産の再エネ)で置き換えて、エネルギー自給率を 100% とすることで、現在、20~25兆円に上る化石燃料の輸入金額が節減できるから、この新エネルギー(開発)産業が、パチンコ産業と同程度の経済規模に発展し、雇用が促進され、経済不況下にあって閉塞感を抱いている日本の若者に大きな夢を与えることができるとしている。
しかし、この主張には、いくつかの事実誤認があることが指摘されなければならない。第一は、エネルギー資源としての化石燃料は、電力および電力以外のエネルギー源として利用されるのに対して、原子力および再エネは、少なくとも現状では電力にしか変換利用できないことが見落とされている。現状では、エネルギー資源量としての国内一次エネルギー供給の約1/2 が電力であるから、再エネ100% の電力利用でもエネルギー自給率はせいぜい50% 程度にしかならない。
第二のより基本的な問題は、原発電力の代替には、再エネしかないとの「思い込み(決めつけ)」が先行していることである。すなわち、原発電力代替のエネルギー源の選択であれば、現状で、その生産コストが原発よりはるかに安価で、安定な供給が期待できる石炭火力発電がある(文献2『科学技術の視点から原発に依存しないエネルギー政策を創る』日刊工業新聞社)のに、その石炭火力の使用が、地球温暖化を促進するとして、頭から排除されている。この原発代替として再エネしかないとの「思い込み」が、再エネ電力の非経済性を根拠にして原発維持を主張している現安倍政権の原子力エネルギー政策の継続を結果的に支持することになっている。
第三の問題点は、現状で、原発代替の再エネ電力の導入に5兆円(私の計算では6・76兆円)ものお金を使うことは、再エネ電力の生産による化石燃料の輸入金額の節減分2・43兆円を差し引いた差額4・33(=6・76 –2・43)兆円を稼ぐために、現在、 国内エネルギー供給の主体を担っている化石燃料の輸入金額を却って増やすことになるとの事実に気付いていないことである(文献 3『原発を止めたいと思うなら再生可能エネルギー導入を叫んではいけない』IEEI寄稿)。
いままで、日本経済を支えてきた輸出産業の停滞による貿易収支の赤字が問題になっているときに、再エネ利用による新エネルギー産業を、貿易収支が大幅な黒字の時代に盛んに要請された内需拡大にのみ貢献しているパチンコ(娯楽)産業と同列に論じることはできない。
原発代替が再エネしかないとの「思い込み」が、人々の脱原発の願いを阻害している。
原発の代わりは再エネではない
いま、原発代替の電力供給を巡って、国内世論は、ほぼ三分しているように見える。福島原発事故の厳しい現実から、再稼動の停止を含めた原発の即時廃止を訴える即時廃止派と、安全が確保できれば再稼動は認めるが、原発の新、増設は認めないとする条件付き脱原発派、および、日本経済の発展のためには原発電力がどうしても必要であるとする原発擁護あるいは推進派がある。この三派に共通しているのが、原発代替の電力としては自然エネルギー(国産の再エネ)しかないとの「思い込み」のようである。
ただし、この原発代替の再エネの利用では、上記の三派の対応は、はっきりと違っている。原発即時廃止派は、再エネがあれば原発は不要だとして、再エネ電力推進のための国民の経済的な負担も止むを得ないとしている。その根拠としては、使用済み核燃料や廃炉の処理・処分、さらには、事故の賠償金を含めれば、原発のコストは算定しようもないほど大きくなることが上げられている。
一方、その対極にある原発擁護あるいは推進派は、この即時廃止派の対応を現実を無視した感情論であると捉え、日本経済の発展のために必要なエネルギーの確保のためには、新しい安全対策基準に基づいた原発の再稼動だけでなく、その新・増設を含めた原子力エネルギー政策の継続が必要だと訴える。
両者の中間派に属する条件付き脱原発派の人々の多くも、再エネ電力が今すぐ原発電力を代替できないであろうから、経済性を優先する現実的な視点から、現状では、原発擁護派に加担せざるを得ないとしているようである。この中間派の人々の対応が、昨年末と今夏に行われた国会議員の選挙で、原発擁護或いは推進を訴える政治勢力に国会の過半数を占める議席を与えてしまった。すなわち、原発電力の代替には再エネしかないとの一般的な「思い込み」が、いま、多くの国民の脱原発の願いを逆に阻害する結果を招くようになっているとみてよい。
日本は再エネ大国にはなりえない
本書の「はじめに」の部分に、「いまから10 年前、21世紀の入り口で3.11 Fukushima が起こっていたとしたら、日本ではエネルギー政策の本質が変わることがなかったと思います。・・・10年前には、再エネがとても原発代替にはならなかったが、いまは、再エネが原発代替になり得るようになった」とある。
エネルギー経済研究所のデータ(文献4「EDMC/エネルギー・経済統計要覧2012年版」日本エネルギー経済研究所編:省エネルギーセンター)から、2011年度の再エネ電力(風力、太陽光、地熱)の発電量の合計を概算してみると、同年の国内総発電量に対して1・2% にしかならない。
この値は、前年度(2010年度)の1・12倍になるから、この同じ比率で再エネ電力の供給量が伸びたとしても、10年間で、3 倍の3・4 % 程度にしかならない。北澤先生が推奨する昨年(2012年)7月から施行されたFIT制度をあてにしてのことであろう。
原発電力の再エネ代替には早急な達成が要請されるが、このFIT 制度施行後の制度認定件数の実績値から見ても、とてもこの要請が満たされることは考えられない(文献3 )。いま、このFIT 制度を用いて再エネ発電量を増やしてきたドイツが、この制度の存続の危機を迎えている(文献5『ドイツの電力事情8–日本への示唆 今こそ石炭火力発電所を活用すべきだ』『ドイツの電力事情10–再エネ全量固定価格買取制度、グリーン産業、脱原発を改めて考える』竹内純子国際環境経済研究所理事・主席研究員)。どう考えても、「いまは、再エネが原発代替になりうるようになった」との再エネ大国の幻想は先生の希望的な観測にしか過ぎない。
以上、北澤先生には大変失礼な書評になってしまったが、これは決して先生の責任とは言えない。敢えてこの責任の所在を指摘するならば、それは、エネルギー政策のなかに地球温暖化対策として再エネの利用・拡大の促進のためのFIT 制度が政治的に入り込んで、当然のことのように国策として推進されていることにある。
その政策は自称エネルギー専門家や環境経済学者にサポートされているが、その根拠は薄弱と言わざるを得ない(文献2参照)。どうやら、エネルギー政策の立案の場においても、国民の存在を無視して、政治と科学・科学技術が結びついた原子力村と同じような構造ができていると言ってよいのではなかろうか?
今や、北澤先生が指摘する科学者・科学技術者の責任こそが問われなければならないと考える。