世界には心身に何らかの障害がある人が10億人いると言われている。正直、えーそんなに多いの?といった印象を受ける。
これまであまり意識したことはなかったが、私の父も障害者だ。小さい頃から片耳があまり聞こえなかったが、最近は両耳とも聞きづらくなり、補聴器なしでは聞き取れなくなった。手話などできないが、定義上は聴覚障害者となる。
同様に老いにより身体機能が低下し、視力や足腰、知能などのどこかに何らかの障害が出てくることは自然な現象であり、高齢化社会の今日、誰もが行き着くことになる場所だ。そう考えると、障害があるということは決して特別なことではないことに気づく。むしろ、人よりもやや早く身体の一部の機能が低下し、それを補うかたちで別の機能が発達している方の場合、いわば人生の先輩格であるとも言える。
昨日、勤め先の日本財団で国連国際防災戦略事務局および日本障害フォーラムと共同で「障害者と防災」に関するシンポジウムを陸前高田で開催した。東日本大震災では、障害者で亡くなられた方の割合は、全体の死亡率の約2倍であったという調査結果が出ている。避難警報に気づかなかったり、気づいたとしても逃げるのが困難だったりといった理由からだ。多少差が出ることはある程度予測できるにしても、2倍という数字は衝撃的だ。
残念ながら、これまでの防災計画では障害者についてしっかりと位置づけられていなかったということが、行政側にも当事者側にも共通する見解だ。比較的防災意識が高い日本でもそのような状況なので、海外ではなおさらだと言える。
さて、これが他人事なのか、自分事なのかということだが、私の場合、父がもし補聴器を外していたときに大災害が起きたらと想像するとぞっとする。祖父母は皆亡くなったが、生前にもし災害があったなら、やはり介助がなければ避難できなかっただろう。まだ幼い子どもたちも、もし妻一人のときに子どもたち3人を連れて行かなければならなくなったら、かなりの無理がある。
災害時に援護が必要な人は実は相当数いて、ほとんどの人が他人事ではないのではないだろうか。さらに、自分自身もいずれは歳を重ねて身体が自由に動かなくなり、要援護者になるわけだ。シンポジウムのなかで、障害者にとってよい街は、障害者にのみ良い街なのではなく、誰にとってもよい街なんだという意見が出ていた。
私たちはこれまで、健康な成人男性を前提に防災でも何でも社会システムをつくってきた。でもそういった前提が成り立つのはむしろ人間のごく限られた一部であり、人間社会はもっと多様な社会なのだと思う。ときに支え、ときに支えられる。子どものときだってそうだったし、老人になればそうなるわけだ。そして、災害時、最も助けが必要になるときに、しっかりと支えあえる社会でありたい。明日は我が身。障害者と防災も自分事として考えたとき、はじみてどうあるべきなのかが見えてくる気がする。
学びのエバンジェリスト
本山勝寛
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「学びの革命」をテーマに著作多数。国内外で社会変革を手掛けるアジア最大級のNGO日本財団で国際協力に従事、世界中を駆け回っている。ハーバード大学院国際教育政策専攻修士過程修了、東京大学工学部システム創成学科卒。1男2女のイクメン父として、独自の子育て論も展開。アゴラ/BLOGOSブロガー(月間20万PV)。著書『16倍速勉強法』『16倍速仕事術』(光文社)、『マンガ勉強法』(ソフトバンク)、『YouTube英語勉強法』(サンマーク出版)、『お金がなくても東大合格、英語がダメでもハーバード留学、僕の独学戦記』(ダイヤモンド社)など。