デモクラシーを疑う - 『文明と教養の〈政治〉』

池田 信夫



安倍政権は、政治的なリスクを避けて現状維持するだけの「昔の自民党」に戻りつつある。これに対して野党はまったく無力で、55年体制より極端な一党独裁が生まれているようにみえる。これは選挙制度や憲法よりもっと深いところで、日本人にデモクラシーが似合わないことを示唆している。

本書も指摘するように、デモクラシーは18世紀以降の新しい言葉で、「人類史のほとんどの時期にほとんどの社会においてまったく何の意味ももたなかった用語」である。かつて政治を支配していたのは人文的な教養(civility)を共有するエリートで、そこで大事なのは礼儀作法などの「型」だった。

しかし資本主義と植民地戦争の拡大とともに社会が多様化すると、政治から「型」が失われ、科学技術によって富を蓄積する文明(civilization)への転換が起こった。野蛮の代名詞だったデモクラシーは19世紀からポジティブな意味をもつようになり、20世紀にほとんどの国で普通選挙が実現した。

その結果、起こったのは、党派対立による「政治の戦争化」だった。それは欧米のような階級社会では意味があったが、日本のような均質の社会では無理やり異質性を作り出す結果になった。階級対立のない社会で「二大政党」を作っても、自民党のような「型」に回帰してしまうのだ。

近代国家は多様な人々の同型性を法的に作り出す制度だが、日本人は古くから型を共有する洗練された国民だった。一般庶民も国家を意識しないで、礼儀正しく行動して秩序を維持してきた。こうしたcivilityは、かつては東洋にも西洋にもあったが、近代の戦争がそれを押し流してしまった。それを日本人が21世紀になっても維持しているのは、地政学的な幸運に恵まれたおかげだ。

本書はどちらがいいとも結論を出していないが、グローバル化で日本の幸運が終わった今、civilityからcivilizationへの転換は、よくも悪くも避けられないだろう。ハーバーマスのように「civilityを取り戻せ」などというのは、ユートピア的な懐古趣味だ。現代では政治も経済も戦争なのだから、古きよきローカルな価値を守ることは不可能である。

しかしデモクラシーが行き詰まっていることも事実だ。特に日本で「政党政治」が機能するのか、もっとも無知な大衆に迎合することが政治家の生存戦略になるシステムが望ましいのか、という問題を検討する必要があろう。それを考える上でも、デモクラシー以前の政治を再評価することは重要だが、本書はやや繰り返しが多く、中身が薄い。