松本氏のアゴラ記事「国政における『バランス感覚』とは何か?」に出ている「あいつはまあまあ良く出来るが、バランス感覚がないからなあ」と言う記述を読んで、思わず日本企業にお世話になっていた昔を思い出してしまいました。
何故かと言えば、日本で言う「バランス感覚」には、対立する関係にあるとは知りながら、意識的にどっちつかずの状態を続け、どちらに転んでも自分に損がないようにする「両天秤にかける」能力を褒めるニュアンスがあるからです。
英語で言う「Balance」は、司法の象徴である「正義の女神」が手に持つ「天秤」の事で、日本的な意味での「バランス感覚」とは正反対の、正邪を測る「正義」を意味しています。
合理的な米国とは言っても同じ人間社会ですから、日本的な意味での「バランス感覚」に優れた人は掃いて捨てるほどいます。しかし、そのような人は「Opportunist (ひよりみ)」とか「Brown Nose(ゴマすり)」と言う軽蔑的表現で呼ばれるのが普通です。
参考までに、政治家としてもっとも軽蔑される「バランス感覚」は、最低限の「判断」を放棄して、内容の違いに関係なく「平等」に処遇する日本で言う「公平感覚」の持ち主です。
国の「重要方針」の決定は、最高の判断力を必要としますが、アメリカの統治機構の判断プロセスを扱った、「The President vs. Congress: Executive Privilege and Delegation of Powers (大統領対議会:大統領特権と権力分立)」と言うフレンドリー教授の公開TV講座のエピソードは、日本にも大変参考になると思います。
先ず、私の解説は相手にせず、このエピソードの実際をビデオでご覧下さい。http://www.youtube.com/watch?v=2ulxvwLw6bk
このビデオは、日本では聞き慣れない用語がかなりの早口で飛び交いますので、理解には相当な英語力と米国の統治機構への知識が欠かせません。
さて私の解説ですが、この討議は「石油の海外依存度を下げるために、議会に諮ることなく大統領特権を使って輸入関税を引き上げる決定をする事が許されるか?」と言う仮題を巡って激論がかわされます。
司会役を務めるシュミット博士は, 元エール大学総長(当時はコロンビア大学法学部長)で、修正第1条の屈指の権威者です。
パネリストには、この問題の利害関係者である大統領や国務長官経験者を含む行政側代表、上下両院の議員に代表される立法府。司法からは最高裁判事を含む控訴審の判事、そのほか安全保証担当の大統領補佐官を始めとするホワイトハウスのスタッフ経験者や法律学者に加え、高名なジャーナリストや評論家などのオールスターが民主、共和の別なく参加しています。
「チェックアンドバランス」を基本的理念として制定されたアメリカの統治機構は、建国当初は司法、立法、行政と簡単に分けられていた「三権分立」でしたが、世界の複雑化と共にその関係も変化を続けて来ました。
このエピソードの主題である「大統領特権」も憲法には何の規定もなく、元はと言えば、国家統治を円滑に進めるために必要な処置として「議会」が大統領に与えた特権の一つです。
アメリカの統治機構の歴史を見ますと、「三権」は常に競合関係を続けて来ましたが、永い間に亘り「立法府」が圧倒的な力を持ち続け、大統領の権力が強くなったのは比較的最近の事です。
その大統領の力の源泉が、議会から賦与された特定の国際関係の規制や法令の制定権やホワイトハウスのスタッフの証言拒否権、特定の書類の公開拒否権を含む大統領特権です。
議会が賦与したとは言え、特権の乱用は国民の知る権利を代表する議会としては認めるわけには行かず、議会はその乱用を阻止するために、政策決定に関与した閣僚以下の政府の幹部を議会の行政監督権を活用して軒並み喚問して証言を迫り、証言を拒否すれば議会侮辱罪として拘置すると圧力をかけるかと思えば、大統領側は国の安全保障に関係する問題を公開の場で論議する事は国益に反し、議会で審議できるような時間的余裕もないと主張。
それに対抗した議会側が、マスコミにニュースを流して世論工作、に入ると、行政側はジャーナリストに情報源の開示を求めて際どい勧誘を繰り返したにも拘らず、ジャーナリスト側が情報源秘匿権を盾に情報提供を拒否したら、大統領側にはどのような手段が残されているのか? また、その法的な解釈はどうなるか? 等々、司会者の設定した仮定に沿って活発な論議が続きます。
この論議でわかる事は、「分権」の規則通りに三権の権利、責任を明快に分けるには、今の世界は複雑過ぎると言う事です。
このシリーズの目的は回答を出すのではなく、回答を出すまでのチェックポイントを網羅して国民に回答を迫る番組ですので、日本の統治機構を考える上でも参考にすべき問題が盛り沢山に含まれています。
また、松本徹三さんが指摘したほとんどの問題も取り上げられていますが、論議の対象は「個別具体的な政策」ではなく「政策決定までのプロセス」と言う実社会とはかけ離れた抽象的な課題です。
ここでも明らかな様に、「原理原則」に執着する米国と、「そもそも論」を好まない日本の違いは、国の統治機構のあり方に大きな影響を与えています。
米国の統治機構を知った日本人からは「なんとまわりくどくて、能率の悪い統治機構なんだ!」と言う疑問が出るに違いありません。
その点についてステュワート米国最高裁判事は「我々の建国の父は、国家の難題は国民の衆知を集めて解決する事を願って、意識的にこのような非効率な法体系を作ったのだ」と説明しています。
こうして見ますと、めんどくさがりやで「考える事」よりも安直な答えを求めたり、権力者の顔色を伺いながら中々本音を言わない日本人には、率直な意見の交換と「Due Process(適正手続き)」が前提となる「三権分立」による近代的立憲政治は向かないのでは? と言う疑問が強くなりました。
そうであれば、国民が責任を取る必要も考える必要もない現行の「官僚一権集中制度」を正式に認知して、国会も政府も解散して重要事項は「事務次官会議」で決める制度に切り替えたほうが、遙かに効率的ではなかろうか? と思う今日この頃です。
2013年11月7日
北村隆司