ロイターやdiplomatといった海外主要メディアで自衛隊の救難飛行艇US-2のインドへの輸出が公然と話題にされるようになってきました。US-2は超低速飛行(90km/h程度)、水面への短距離離着水(300m程度)、長距離飛行(4700km)、が可能で、コンピューターによる運転システムを具備したおそらく現段階で世界最高性能を誇る飛行艇です。現在までに4機ほど導入され、かの有名な辛坊治郎キャスターの遭難事故のときにも出動して、高さ3メートルの波の中、見事に同氏を救助の成功にしました。おそらくUS-2がなければ辛坊キャスターは死んでいたでしょう。
製造元の新明和工業の創業者は零戦の後継機でほとんど日の目を見なかった「紫電改」を設計した川西竜三氏で、戦後の荒廃の中、前進である川西航空機を一から再建する形で1949年に立ち上げたのが同社です。戦後はしばらく航空機の製造が禁じられていたので、民需転換してトラックの修理工場から始まり、ダンプやゴミ収集車や水中ポンプの製造に進出しました。1955年に創業者の川西竜三氏は亡くなったのですが、その精神は死なず、1966年に防衛庁からソ連の潜水艦の哨戒機PS-1の受注を獲得し、軍用機の市場に戻ってきます。
しかしながら当時の日本の電子技術の水準は低く、新明和工業も初の飛行艇製造ということで、PS-1は哨戒機として満足のいく性能も発揮できず、事故が多発するという結果を招きます。PS-1は23機の製造のうち6機を失い、30名以上もの自衛隊を殉職させてしまい、その上1980年には早々に調達の打ち切りが決まったので「税金の無駄遣い」とたたかれまくります。それでも改良に改良を重ねてなんとか運用を続け、1989年に現在でも現役のP-3C哨戒機を調達と同時に役目を終えます。
このように哨戒器としては微妙だったPS-1ですが、積み重ねた改良のおかげで飛行艇としてはかなりレベルが向上し、それが水陸両用救難飛行艇US-1の開発につながります。US-1はPS-1を改造したもので、こちらはPS-1とはことなり今でも現役で3機が稼働し続ける名機となりました。運用はかなり安定していましたが、それでも1995年に一度墜落し、乗組員11名が殉職されています。ちなみに2010年には韓国が日本への牽制のために購入したイージス艦世宗大王級駆逐艦の急病人を救援するという国際任務をこなしています。この辺もっと日韓ともに報道すべきだと思うのですが。
そうしてUS-1の後継機として満を持して作られたのが、US-2というわけです。今となっては高いレベルを保持するようになった電子技術を採用し利着水にコンピューター制御による支援システム(フライー・バイ・ワイアー)を導入し、低速での自動操縦モードも備えた模様です。
新明和工業は武器輸出三原則を避けるために当初はこれを民間消防艇として海外に販売しようとしていましたが、ここ数年で武器輸出三原則自体の緩和もあったため、武器輸出という面でも話が前向きに進んでいるということです。インド洋での広域な哨戒任務を担うインドとしてはUS-2はおあつらえ向きであり、また中立政策を貫くために米ロ以外の武器の調達先を増やしたいインドの思惑にも合致していると考えられています。
そんなわけで、川西竜三という一人の漢の魂と、新明和工業をはじめとする各社及び政府の技術者と、41人にわたる自衛隊員の方々の殉職との上にUS-2という名機は誕生し、今世界に羽ばたこうとしているといっったところです。
最後にUS-2誕生に貢献された皆様のご冥福を祈って結びとさせていただきます。
ではでは今回はこの辺で。
編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年11月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。