今年6月に閣議決定された「日本再興戦略 – Japan is BACK」の柱の一つとして、大学改革があげられた。そこでは、産業競争力強化の観点からグローバル化による世界トップレベルの教育の実現、産学連携、イノベーション人材育成、若手・外国人研究者の活用拡大等を目指すために様々な改革を推し進め、今後3年間を目途に包括的、具体的な計画に取り組むとされている。
ユネスコの統計によれば、2004年には82,945人いた日本人の海外留学者数は2010年には58,060人となっており、この数値は、若年人口の減少ということに鑑みても、激減である。また国内の大学の教育の国際連携も、遅遅として進んではいない。こうした状況を踏まえ、このままでは、日本は国際社会の中で取り残されていくのではないかという問題意識が大学内外で強まっている。国内でも幾つかの中堅私大などでグローバル化に特化した展開をしている大学もある一方、この問題への関心や取組みは各所において大学人の中でも相当な温度差があるのが実情である。
数多くの国際共同研究をこなしている研究室でも、「日本の研究環境は優れており、右肩あがりの経済成長の時代のように、大学にもポストがどんどん増えていく時代と今は違い、限られた研究環境のポストを手放すリスクを冒してまで、武者修行にみんな出たがらない」という。確かにアカデミアにおけるキャリアパスという観点からいえば、そういう現状認識となることはある意味否めないかもしれない。
しかしながら、大学とは社会の中でどのような役割を担うべきものなのか、大学というものの本来の存立の意義に立ち戻り、そもそも、なぜ、大学をグローバル化せねばならないのかを考えてみなければならないだろう。
企業をはじめ社会全体は、グローバルな展開をする活動がその基盤となりはしめ、それに対応した人材の育成は喫緊の課題としてつきつけられている。
一方、大学というものは、学生の教育成果の質に関して、社会に送り出すに当たり、保証せねばならない責務を負うているはずである。論文数などの大学の研究成果のみならず、卒業生として、送りだすひとりひとりについて、どのような学びの機会を提供して、それによってどのような学びを得たかということを保証していかねばならない。こうしたことの社会へのアピールについても実はこれまであまり心血も注がれなかった。しかしながら、グローバル教育というもの自体の学問体系もないなか、グローバル教育というものの内実について、学生にも社会にもアウトリーチして、社会と連携していくことがもとめられてくる局面に大学は立っている。だからこそ大学というものが社会とどう向き合っていくかの真価が問われている。
イノベーションを生み出すための産学連携が叫ばれて久しいが、企業など実社会には、学知の世界にはない視座があり、それらの実践課題と、大学がもつリベラルアーツなどの融合によりイノベーションを創出できる総合的な知力を目指すことができるはずである。我々の学際の通年授業においては、グローバル課題と向き合う企業のトップの話を連続講座の一環で学び、異分野の学びと結び付けて学生自身が問題系を組み立てている。学生自身がラーニングアウトカムをグローバル課題としてとらえようとしている。たとえば、サマープログラムなどで、短期留学する学生に、海外の大学での講義とセットにして、各企業が海外にもっている支社などに、インターンシップで短期に学生を受け入れてもらうなど、企業が抱えるグローバル化の課題そのものを大学の学びのなかに落としていくことなども可能になるのではないのか。大学のグローバル化という、実社会からみると、かなりスローペースな改革ではあるが、大学自身の知の在り方が、企業の求めるグローバル人材育成に対して、時には批判をすることもありながらも一緒に対応しながら社会のあるべき姿を構想する方向に開かれていくことが可能ではないのか。
そして、こうした人材育成に加えて忘れてはならないのは、大学のグローバル化は国家の安全保障としての機能も果たしているということである。
私は先日、研究の一環として中国東北部を訪ねた。9・18という、意味の深い日程近くに訪問してしまった不明を恥じたが、戦争はそれを体験したひとだけの記憶ではなく、今を生き延びる人々に様々な形で深い影を落としている。知識人たち同志の交流ではなかなか剥き出しの感情には出逢うことはないのだが、ちょっと離れて一般の人々と来年のことを約束しようとすると「来年、日本とは戦争になるかもしれないと、地域の人たちが話しているのに」という反応が普通に返ってくる。幸い、日本に留学経験のある人もその場には居合わせており、日本の現状を理解し伝えることのできる人材がその地にはいるということに、少しは安堵した。戦後長きにわたり、日本の豊かな経済力を背景にしてそれによって利益を得られる人々などを中心としてアジア諸国には、親日家の層が厚いと錯覚してきたが、もはや、その日本経済の優位性も陰り、東アジアの昨今の緊張の中、日本という国をどのような眼差しで見られているかということが、本当に問われてくる時代となっている。
外交の失敗が戦争になることの恐ろしさを外交官たちは骨身に沁みて知ってはいるはずであるが、社会の中の様々な層の人びとの心情に近づき、理解をお互いに深めるためには狭い国益にとらわれないアカデミアをベースにした留学などの人材交流こそがその本領を発揮するはずである。日中韓の合意事項として実現してきている「キャンパス・アジア」構想なども、今こそ、その意義と可能性について幅広く共有していくべきときではないのか。現行の制度は実施年度が長く、機動性のあまりないものだが、より幅広にプログラムの規模と範囲を拡大していくべきだと、提案したい。軍事的安全保障措置を超えた真の国家の安全保障は、普遍的価値を共有できる基盤をもつ、大学という存在のグローバル化にあることを、今一度思いかえす時期にきている。
グローバル化という局面は、大学という日本の中でも極めて閉鎖的な存在に、黒船のように到来してきている。しかしながら、これは、大学という存在そのものが、社会の中で果たしうる役割の再構築を実現する僥倖ともいえるのではないかと考える。
河原 ノリエ
東京大学 先端科学技術センター
総合癌研究国際戦略推進講座 特任助教
編集部より:この記事は「先見創意の会」2013年11月5日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった先見創意の会様に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は先見創意の会コラムをご覧ください。