「道徳教育」をやるのなら、よく考えてやらねば

松本 徹三

欧米諸国にはない日本の「検定教科書制度」を批判した11月14日付の北村さんの記事は、最近また言い出された「道徳教育」についての懸念についても語っている。また、6月20日付の「公共教育のあり方」のあり方についての私の記事にコメントを出して下さった鳥畑厚志さんは、「国がやるべきは、教育の機会均等を実現し、社会のルール等を教えるところまでで、人格の形成や人間性の成長といった問題にまで関与すべきではない」と言われた。私の考えも基本的には同じだ。


しかし、「近頃の若いものは何を考えているのか?」と嘆く大人たちは、事あるごとに「教育が知識の詰め込みに片寄っているのが問題なのではないか?」と問いかけて来る。「そんな事は毎日の生活の中で家庭を中心に身につけていく事」と切り捨ててしまいたいのはやまやまだが、現実には全くその機能を果たしていない家庭も多いから、「公共教育には家庭の教育環境の格差をある程度吸収する使命もある」事を考えれば、そう言って簡単に切り捨ててしまう訳にも行かない。

その上、子供たちの毎日は、「次々に増えてくる学校での学習の対象(例えば英語等)」や「クラブ活動」や「お稽古事」だけではなく、「子供たちの中で仲間外れにならない為に必要な諸々の事(メール、テレビ、ゲームの三種の神器を使いこなす事)」も含めて、今や極限にまで使い切られてしまっている。余程のインセンティブが働かない限りは、「これまで考えてもみなかった事を、これまで思ってもみなかった角度から、じっくりと考えてみる」等という事を、子供たちは自分からはとてもやりそうにはない。

それなら、多少の無理をしてでも、正規の教科の中で「その場をつくる」事は、あながち意味がないとも言えないのではないかと、私は最近思い直すようになった。「道徳教育」という固い言葉には引っ掛かるが、「子供たちに『人間とは何か』『人はどうあるべきか』という問題を考えさせる場」であるとこれを定義するのであれば、一応納得は出来る。しかし、そうであれば、それにふさわしい教材(「読み物」や「映画」)を選び、それにふさわしい教え方(子供たちが自分で考えるのを助ける助け方)を定めるべきは当然だ。

どんな子供でも、幼い時から、「世の中には正しい事と悪い事がある(らしい)」と教えられている。テレビには必ず正義のヒーローが出てくるし、彼等が「悪」をやっつけてくれる。(「悪」は多くの場合「地球征服を企む集団」のようなものだ。)しかし、何が正しい事で何が悪い事かは、実はよく分からないし、そもそも、それを決める基準が何なのかについては、手掛かりすら与えられていない。大方の大人だって、あまりよく分かってはいないのだから、これはまあ仕方がないとも言えるだろう。

「善 - 悪」「正 - 邪」の他にも、人間の社会には多くの「お互いに対極にある概念」が存在している。「美しい - 醜い」「信用出来る - 信用出来ない」「フェア(公正、義理堅い) - アンフェア」「正直 - 嘘つき(猾い)」「勇敢 - 臆病」「潔い - 卑怯(貪欲)」「可愛い - 可愛くない」「格好いい - 格好悪い」「賢い(よく考えている)- 馬鹿(何も考えていない)」「親切 - 冷淡」「丁寧 - 粗雑」「熱い(暖かい)- 冷たい」「誇り高い - 卑屈」等々だ。そして、人によってそれらを愛したり憎んだりする度合いが異なるので、ここに人間同士の間での強い「共感」や「反感」が生まれる。

こういう事は別に教えなくても、子供たちは自然にそれぞれの価値観を身につけていく。だから、学校の教室で、こういう事について、「何かの決まり事」の様に教えるのが妥当だとはとても思えない。ただ、色々な事例を「読み物」や「映画」の形で見せて、子供たちにそれぞれの登場人物の考えや行動を評価させれば、「物事を深く考える」事を促す意味があると思うし、先生や他の子供が自分では気がつかなかった事を指摘したり、異なった評価をしたりするのを体験させれば、「物事を一方的に決め付ける事」の誤りに気づかせる意味もあると思う。

それだけに留まらず、このような体験の中から、これまでには思ってもみなかった「深い感動」や「深い共感」を得て、自分が大きく成長したと感じたり、これからの自分の進路について或る程度の思いが定まったりするような子供たちも、相当数は出てくるだろう。もしそうなれば、「これで初等教育の最大の目標は達成された」と言っても過言ではないかもしれない。

以前にもアゴラの場を借りて書いたように思うが、私は「豚のいる教室」という教育用に作られた日本映画に大変感銘を受けた事がある。これは実際に小学六年生のクラスに豚を飼育させて、最後にこの豚をどう処分するかで意見が真っ二つに割れるところまでを描いている。

感情に引っ張られる子供たちのグループは、可愛いがってきた豚を食肉工場に引き渡す事をどうしても受け入れられず、「下級生では到底育て切れない」と知りながらも、引き取りを希望してきた三年生のクラスに引き渡そうとするが、現実(理性)派は、「いつも平気でハムや豚カツを食べているのに、自分たちの豚だけを特別扱いにするのはフェアではない」「すぐに方々に迷惑かける事を分かっていながら、三年生に任せてしまうのは無責任」と主張して譲らず、結局トラックに乗せられて食肉工場に送られる豚をみんなで見送るところで物語は終わる。

確かに、現在の初等・中等教育のカリキュラムでは、「物事を色々な角度から深く考えるトレーニング」は殆ど用意されていないようだ。(算数では多少は考える事を求められるだろうが、対象は限られており、且つ単純だ。)「そのようなトレーニングは高等教育からで良い」と考えている人たちもいるかもしれないが、私はそうは思わない。国民のすべてが、平均して物事を深く考える様になれば、より良い民主主義社会が築けるであろうし、あらゆる分野で有為な人材を多数輩出する事にも繋がり、これが国力を高める事にもなるだろう。

最後に、本題からは少し離れるかもしれないが、よく話題になる事ゆえ、「教育と犯罪防止」についても、一言付け加えておきたい。

未成年者による殺人事件等が起こる度に、「映画やゲームの影響で、若い人たちが人を殺す事を何とも思わなくなってしまっているのではないか? 子供たちに『人の命の大切さ』という事をもっと教える必要がある」といったコメントが聞かれるが、これ程空疎な言葉はない。「人の命の大切さ」をどう教えろと言うのだろうか? 人の死がテーマになっている物語や映画は数限りなくある。その中から「とりわけ悲痛なもの」「理不尽なもの」「色々と考えさせられるもの」を選んで、その感想を書かせ、語らせる以上の事が学校に出来るとは、私にはとても思えない。

蛇足ながら更に言うなら、犯罪防止だけの為なら、正義感や情愛に訴えるより、近代社会の法制度について教えておく事の方が、はるかに効果があるだろう。「人間には元々闘争本能があり、それが殺し合いにまで発展する可能性がある」「人間は自分が追いつめられれば、何でもやる事を自分に許してしまう傾向がある」と教え、「それ故に、多くの善良な人たちを守る為に、人間は『法』というものを作った。『法』に違反すれば、誰であろうとも、当然厳しい処罰を受ける」と、きっちり教えておくべきだ。この事を徹底し、その詳細な適用例まで含めて教えておけば、「社会に対する甘え」という言葉は、やがては存在しなくなるだろう。