混迷時には強力なリーダーが求められる。組織を統率するには、柔和な対話型より、時として強権を発動する帝王型の強いリーダーが望ましいという考えもある。
スキャンダルに襲われた猪瀬氏が、みるみる衰弱していく様を見て、「没落した独裁者」の姿がだぶって見える。中東やアフリカ、世界中で倒された独裁者の最後の姿が二重写しに見えるのである。
リーダーシップとは人を威圧し、屈服させることではない。ビジネスの世界であれば、達成すべき戦略目標に向け、組織を動員することによって目標達成ができることである。
猪瀬知事の凋落は、強権型リーダーの限界と、打たれ弱さを露呈したものと考えられる。
リーダーシップの形態にはさまざまなものがあるが、混迷する社会においては「強力なリーダー」出現への期待が高まりやすい。まどろっこしい民主主義プロセスをすっ飛ばし、強権的手法で「決められる」政治の実現をすることへの民意は確実に存在しているといえる。混迷を極めるワイマール共和国で、帝政が倒されたロシアで、強力なリーダーシップの下、秩序は立て直された。
しかしそれが国民にとって幸福だったのか、歴史は物語っている。
強権的リーダーの化身ともいえる石原前都知事の後継として、その石原氏をもしのぐ史上最多得票で当選した猪瀬都知事も、元来のこわもてノンフィクション作家のハードライナーとして、石原氏にも勝る高圧的な運営で都庁に君臨していると伝えられている。
強権型リーダーの究極は独裁者である。カダフィ大佐、フセイン大統領、チャウシェスク大統領……追われた独裁者の哀れさと同じような、汗だくで支離滅裂な説明に終始する猪瀬知事の、拘禁反応のような狼狽した様子に、もはやオリンピックを勝ち取った男の姿は無い。
強権型リーダーの勇ましさは本物の兵士のそれではない。打たれ弱い、脆弱なカバーに過ぎない。その権力と、権力の源である地位や富を失えば消えてしまう程度のカリズマであり、27年間投獄されても耐え切った、正に人物そのものの持つカリズマを有したマンデラ元大統領とは比較にならない。
いくら勇ましい、好戦的な発言をしたところで、自分と自分の一族は絶対に戦場に送られない安全地帯に居る浅薄さと違い、実際に戦闘を行う兵士は決して戦いを美化しない。戦争の現実をわかった上で、その役割を粛々と果たす。戦略目標攻略のため、敵から攻撃されるだけでなく、敵を殺傷する恐ろしさも理解できているのが本当の勇気なのではないだろうか。本物の兵士は戦いに勝つことも負けることも理解している。
ビジネスの世界も似ている。勝つことも負けることもある。強権的リーダーシップを発揮する管理職を多数見てきた。特に外資系企業ではアップ・オア・アウトと言われ、短期の目標達成を求められることは多い。しかしそれでも短期目標の積み重ねの先にあるゴールを理解し、かじ取りが出来るリーダーシップは、責任感の無い勇ましさや大風呂敷、部下への圧迫だけでは到底達成し得ないものである。
都庁の部下たちを圧迫しまくったといわれる猪瀬知事に今、心から仕える部下はいるのだろうか。今回の事件も、でっち上げの疑惑をかけられたのではなく、別事件の捜査であぶり出されてしまったゆるさによって、ますますその存在の薄っぺらさが際立ってしまった。
説明に亡き妻を登場させればさせるほど、それが真実であれ何であれ、少なくともリーダーとしての信頼感は完全に崩壊したことを裏付ける以外の効果はない。
政界、外資、強権的なリーダーシップは、結果として本来の業務、目標達成において脆い存在と言えるだろう。
増沢 隆太
東京工業大学大学院 特任教授
組織コンサルタント