北で粛清されない「男」の生き方 --- 長谷川 良

アゴラ

北朝鮮の権力構造で久しくナンバー2の実力を誇っていた張成沢国防副委員長が甥の金正恩第書記の逆鱗に触れて処刑されたことは北朝鮮の独裁政権の恐ろしさを改めて内外に示した。叔父を粛正した金正恩第1書記はいよいよ独自の権力を構築したという声が聞かれる一方、張国防副委員長に代わってナンバー2に躍り出た崔竜海軍総政治局長が3代続いてきた世襲国家を乗っ取るのではないか、という「軍クーデター説」が以前より現実味を帯びてきた。いずれにしても、金日成主席と金正日総書記、そして金正恩第1書記の3代が支配する北では粛清、処刑は日常茶飯事のことであり、決して珍しい政変ではない。


ところで、粛清、失脚、処刑という激しい洗礼を受けることなく、3代政権に仕えてきた人物がいる。最高人民会常任委員会委員長の金永南氏だ。同氏は17日行われた金正日総書記死去2年の中央追悼大会で金正恩第1書記を挟んで崔竜海軍総政治局長と共に檜舞台に立っていた。

プロトコールから金氏は国家元首だ。そして久しくその立場にある。多くの党、軍幹部が現れては消えていった北で唯一、変わらず権力の位置に座り続けてきた。同委員長は1928年2月生まれで、今年85歳だ。北朝鮮指導者の中でも最長老の1人だ。党序列2位だ。

ちなみに、張成沢氏は金永南氏から「北で粛清、失脚せずに権力に座り続ける方法」について指南を受けていれば、あのような悲惨な最期を遂げずに済んだかもしれない、と考えてしまう。

金総書記が生前、金永南氏を羨んでいたという話を聞いたことがある。独裁者は国家の全ての財宝、人材を自身の願いに従わすことができるが、如何なる独裁者でもできないことがある。自身の生命だ。死が訪れれば、多くの独裁者は「もっと生きたい」と叫びながら亡くなる。金総書記は金永南氏の健康を羨んでいたのだ。金永南氏は1998年に委員長となって以来、病気らしい病気をしていない。だから、高血圧や肝臓病など満身創痍だった金総書記にとって、金永南氏の長寿が羨ましくて仕方がなかったわけだ。

金永南氏は金日成主席の追悼大会で演説をした。そして金総書記の追悼の辞も読んだ。そして金正恩氏が突然死した場合、金永南氏が追悼演説をすることになるかもしれない。そうなれば、3代の独裁者の追悼演説をした人物としてギネスブック入りは間違いないだろう。

問題は、独裁政権下で粛清や失脚されず、どのようにして生き延びてきたかだ。金永南氏から直接聞かなけれは詳細なノウハウは分からないが、野心を持たず、他者からも野心を持っているとも思われないように振る舞うことだろう。長い間、外交畑を歩んできた金永南氏は生来、野心を感じさせない数少ない政治家だ。その彼に最もマッチしていたポストは名誉職だ。北の場合、最高人民会議常任委員長だ。そのポストに就任した金氏はプロトコールが求める職務を忠実に実行し、日々の政務や政争から一定の距離を保つことができた。金氏にとってこれが幸いしたのかもしれない。

それでは、張成沢氏は金永南氏のように名誉職に甘んじて生きることができただろうか。張氏の金敬姫夫人が故金総書記の実妹だったこともあって、張氏は自然と独裁政権の中枢に追いやられていった。それが最終的には張氏の命取りとなったわけだ。

当方は約20年前、金永南委員長の末息子、金東浩氏とウィーンの国連内レストランで昼食をしたことがある。食事中、彼は主体思想が如何に素晴らしいかを延々と語った。彼は主体思想が生み出した北の模範的な2世だった。父親・金永南氏は息子を誇らしく感じているのだろうか(「<金トンホ氏の横顔/A>」2007年3月14日参考)。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年12月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。