秘密保護法と渡辺、石原両氏に見る「狭量」と「独善」への不安

北村 隆司

小沢一郎氏がその著『日本改造計画』で、憲法第9条を改正し自己責任を旨とした小さな政府を作ることで、日本を「普通の国」に戻す事を提唱したのは1993年であった。

爾来20年。すっかり変節した小沢氏に変り、国民と国家の自立を通じて日本を外交と内政の共生を理念とした公正な国にすると言う小沢氏の主張を、安倍内閣が引継いだ格好となったのは誠に皮肉である日本の集団的自衛権を容認し、秘密保護法を成立させて自己責任を果たそうとする安倍内閣の方針は、国際的に見ても日本が普通の国家への一歩を記したと評価される事は間違いない。


しかし、秘密保護法の制定には基本的に賛成の立場を取る私も、秘密の取り扱いに関する民主社会のインフラを持たない日本での運用には強い懸念を抱いている。

民主主義の「面倒臭さ」と「有り難さ」の特徴は、「手段を選んで目的を達成する」プロセスであり、国家の秘密の取り扱いは「伝家の宝刀を抜く」以上の慎重さと、相手方への配慮が要求される。

先日の拙稿「政府は、NY Timesの「秘密保護法批判 に反論せよ!」で指摘したように、日本の問題は「秘密保護法」ではなく、日本の「Due Process(適正手続き)」への無知である。

欧米で言う「Due Process(適正手続き)」は、コンプライアンス(法令遵守)とは異なる、深く広い理念的意味合いを持つだけに、ニューヨーク・タイムスの指摘した疑念には、日本政府は自分の正当性を示すか「Due Process(適正手続き)」への無知を認めて訂正するか、いずれにしても早急に答える必要がある。

また、日本では「法治国=先進国」と誤解する傾向が強いが、北朝鮮や中国の様な全体主義国家でも「法律」を盾に行政を行なっている様に、民主主義の要諦は「法治」にあるのではなく、その前提にある「Due Process(適正手続き)」を踏んでいるか否かにある。

この認識を身につける事は。民主国家の指導者の「たしなみ」の一つであり、本は読めても「民主主義の空気を読むのが苦手」な日本の識者には不得手な代物である。

先進民主国には「Due Process(適正手続き)」以上に重要な普遍的な理念として「Quid pro quo の大原則」がある。

この大原則は、特に秘密保護の適正運用に大きな影響を及ぼす原則だが、日本ではその翻訳もされていないくらい軽んじられている事が日本の「秘密保護法」への不安を高めている。

「一方的な契約」や「一方的な関係」は、たとえ合法的に決められた物でも認めない「Quid pro quo の大原則」は、「悪法も法なり」の日本の司法とは程遠い存在だが、欧米では、グアンタナモ拘留問題など重大な人権事件でもこの原則が適用されて政府の主張が覆されたり、ハーグの国際刑事裁判でもこの大原則が適用されるなど国際的にも普遍的な価値概念である。

この大原則を否定する政治家が日本で幅を利かす限り、日本の治世は韓国と余り変らない低レベルだと言う批判をかわすことは難しい。

その意味で、「秘密保護法」を扱わせてはならない「危険な政治家」の代表として、みんなの党の渡辺代表と日本維新の会の石原共同代表を挙げておきたい。

この二人はその言動から判断すると、韓国の朴大統領の「偏見」「狭量」「怨念」思想に驚く程似た独断専行と「Due Process(適正手続き)」の無視(無知?)が目立つ後進性政治家である。

渡辺代表に例をとると、つい1年前まで同志として選挙を共に闘った仲間が袂を分かつと、執拗なまでの嫌がらせを繰り返すなど異常なまでの「狭量」で「怨念」の強い性格がはっきりした。

このような性格を持つ人物が権力者となり、国民や国家の秘密を握ると思っただけでも、身が震えるほど恐ろしい。

また、石原共同代表は国会での党首討論で、安倍総理に対して「イスラエルは小さな国だが、モサドと言う極めて優秀な秘密諜報機関を持っている。日本もこれを模範にする様にお願いしたい」と言うとんでもない応援演説をしたが、流石の安倍総理もこれには直接回答しなかった。

「モサド」は誘拐、暗殺、テロ何でもござれのスターリン時代のソ連やナチスのやり方と余り変らない国家テロ組織で、これを模範と考える政治家が秘密を握ったとしたら日本の戦前復帰は間違いない。

日本を普通の国に戻す為の「秘密保護法」とは言え、秘密の適正運用には、日本が渡辺氏や石原氏の様な狭量で独善的な政治家が権力を握る恐れがなくなる様な社会に成長する事が、どうしても必要な社会的インフラである。

2013年12月24日
北村隆司