首相が「国のために戦死した兵士」に敬意を表して何故悪い!

北村 隆司

何処の国でも常識とされている「国の為に倒れた戦死者へ敬意を表する」事を、安倍首相が行なうと内外からとんでもない事だと批判される理由は誠に不可解である。

以前の拙稿でも書いたように、冷戦時代のソ連当局は共産主義とその社会を賛美する日本の進歩的文化人の様子を歓迎しつつも、内心ではその愚かさを軽蔑し「役に立つ馬鹿(useful idiots)」と呼んで冷笑的に利用してきた。

歴史は繰り返す。朝日や毎日に代表される「リベラル派」のマスコミや「進歩的文化人」の生き残りグループは、今や「中韓両国」にとって格好の「役に立つ馬鹿(useful idiots)」に成り下がっている。


それぞれの信奉する外国の思想を賛美し「それを可能にしたのは何故か?」と解説する事を生業とする戦後日本のインテリグループが、「進歩的(良心的)文化人」と称された集団であり「役に立つ馬鹿(useful idiots)」であった。

その集団には、戦後政治思想の世界で神格化された丸山真男教授を含む、人格、識見並々ならぬ人々がいたが、このグループが決定プロセスの是非を延々と論議する為に「日本の優柔不断風潮」を招く大きな原因ともなった。

現在でも、一部の医者、弁護士、大学教授らが声高に唱える「平和主義」や「九条の会」「非武装中立」「武器三原則」「集団的自衛権拒否」などはこの係累に属し、この人たちが安倍首相の靖国参拝に拒否反応を起こし、参拝を巡って国内が感情的に対立する一因になっている。

靖国参拝を巡って日本を世界の孤児、そして侮蔑的国家に仕立て上げてきたのも、実はこれら進歩的文化人なるものの「自虐史観」であって、安倍首相の責任ではない。

「靖国で会おう」と言って、国家の為に倒れた戦士の意思を無視して千鳥ヶ淵に行けば良いと言う人もいるが、これは戦死者に対して誠に無礼な要求で、千鳥ヶ淵に行くのは阻止しないが、だからと言って靖国に御参りに行ってはならないということにはならない。

それこそ「進歩的文化人」が「金科玉条」の如く掲げる思想信条の自由を束縛するものである。

国民は寧ろ、首相とともに靖国神社に参拝し、犠牲になった方々に祈りをささげ不戦を誓いそのことを諸外国に伝えるべきで、諸外国から批判される筋合いはない。

A級戦犯の合祀については、戦犯のA級・B級・C級という区分は、「C級よりA級の方が重大」という意味ではなく、ナチス断罪の関係もあり、A級の「平和に対する罪」を「人道に関する罪」のC級犯罪より重視した検察の主張が前面に出て、「C級よりA級の方が重大」だと言う印象を与えてしまったにすぎない。

その証拠に「C級戦犯」で死刑判決を受けた人がいる一方、「A級戦犯」でも比較的短い有期刑で終った人もいる。海外からの批判には、この間の事情と日本の立場を辛抱強く誠意を持って説明していくと言う安倍首相の説明は正しく、日本人が首相の脚を引っ張るなどはもっての他である。

決して靖国参拝支持者ではない池田信夫博士までが「東京裁判は敗戦国の指導者を殺すための儀式であり、公平もへったくれもない。国際法には、法の支配はないのだ。」と書いている。

韓国が日本批判のモデルとするドイツでも、ナチスの不法体制を専門的に支えた官僚や知識人、ナチス党の財政的後ろ盾となった銀行家やコンツェルンの代表者等々は、ナチスの主要戦争犯罪人被告がニュルンベルグ裁判で追放された後に、続々復権している。

この事実からも、日本だけが狂っていると言う主張には根拠がない。

謝罪外交はマイナスしかない。言うべきことを言う。当たり前のことを、当たり前と主張し相手を辛抱強く説得するしか道はない。

そもそも海外では経済以外に日本に興味がなく、毅然とした態度を取らずに損得勘定による判断で過ごせば、日本は益々海外からの尊厳は得られない。


以上、自説に拘らす「安倍首相靖国参拝支持論」を出来るだけ客観的に代弁したつもりだが、このまとめで問題があるだろうか?

問題が問題だけに、次回からもう少し掘り下げてみたい。

2014・1・7
北村隆司