IT化する教育への危惧 ~ バーチャルな世界(その2) --- 岡本 裕明

アゴラ

ネットを通じた教育が盛んになってきました。私の知っているある学習塾では黒板がなく、先生はおらず、管理人がコンピューターの調子を確認しています。生徒は来たい時に来て、パソコンの前に座り、自分の学びたい科目にアクセスすれば学校の教科書に沿った勉強が出来ます。ヘッドフォンをしながら画面の指示に従い、パソコンを動かし、質問に答え、正解ならばポイントがゲットでき、不正解ならば間違いが説明され、似たような問題を正解できるようになるまで繰り返し行うことになります。


ある意味、非常に良く出来たシステムだと思います。完全自習機能であり、私も感心しています。多分ですが、学校の試験勉強にはふさわしく、即効性は期待できると思います。

ただ、ふと思うことがあります。これでよいのだろうか、と。

このプロセスにおいてコンピューターの画面に次々映し出される画像、文章、そして質問をこなしていく中で生徒本人が何か疑問を持つ余裕はないということなのです。つまり、教育そのものが完全に一方通行であり、本来あるべき疑問を感じ、質問するチャンスはこのシステムにはないのです。

私が中学生のとき、ビートルズのLet It Beという曲が授業のテーマとなったことがありました。そこで何を議論したかは忘れたのですが、授業の最後にある生徒が「先生、そもそもLet It Beってどんな意味があるのですか?」と質問し、先生も一瞬ふと困った顔を見せたのを覚えています。「ありのままに」「なすがままに」といったような意味だと思いますが、中学生の授業ではなかなか難しい英語だったと思います。

学校教育は比較的押し付け型が多く、先生の指導に対して答は一つに絞り込み、分厚い教科書を3学期までにこなすためにはかなり超特急で進めて行かない限り、追いつくことはありません。最近ではどうか知りませんが、私のころは教科書が最後まで終わったケースは少なかったと思います。特に歴史はひどかったですね。

大学でも階段教室と称される巨大な部屋でマイクロフォンをつけた先生が一方的にしゃべって終わり、という講義はずいぶんありました。まずもって身につくことはないと思います。

大学のとき、なぜゼミが有効だったかといえばあるテーマについて研究し、発表し、議論を重ねたからであります。確かに非常に狭いエリアについて深堀しているので教科書の厚みは関係なく議論がとことん、発展していったのですが、その質疑に耐えうる勉学が一番重みがあった気がします。

正月の日経だったと思いますが、人間が記憶しなくてもよくなる日が来るかもしれないという記事があり、ある意味ぞっとしました。コンピューターの開発者にしてみれば人間の記憶はあいまいで忘れやすいからそれを外部に全部きちんと保存すればいつも莫大な情報が簡単に引き出せる、ということなのでしょう。

しかし、それではそれこそSF映画の世界になってしまい、人間の味わいはなくなってきてしまいます。日経の特集、「リアルの逆襲」では音楽すらコンピューターの補助で一日数曲作曲する時代と言われればもはや人間の役割はなんだろうか、と末恐ろしいものを感じさせます。

便利になることが幸せか、といえばよい部分ばかりではないかもしれません。サザエさんの家に御用聞きにくる三河屋さんはある意味、高齢者の一人住まいには欠かせないサービス。それは元気かどうか確認するだけでなく、食べ物の量や質の変化を通じてコミュニケーションできるきっかけが作れます。

パスカルの「考える葦」が今、再び、意味を持つ時代がやってきたのかもしれません。

この続き、もう一遍、入れたいと思います。第三編も近日中にお届けしたいと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年1月15日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。