国家とは何か? 愛国心とは何か?

松本 徹三

最近また「愛国心」という言葉が使われる事が多くなったような気がする。中国や韓国がヒステリックなまでに「愛国心」を鼓舞しているのに、日本人にその意識が乏しくなれば、あらゆる局面で国益が害されるのではないかという心配が大きくなってきたからではないかと思う。こういう流れの中で、今「道徳教育」の必要性を熱心に説いている人たちは、やがては「愛国教育」の必要性を説く事になるのではないかと思われる。


「愛国心とは何か」を問う前には、先ず「国家とは何か」が問われねばならない。最近ある高齢の男性から「いやあ、驚きましたよ。最近の若い人は『国家』という言葉の意味も分かっていないんですね」と言われたので、私は「いや、私自身もあんまり分かってはいないんですよ」と答えた。「国家なんか要らないと言うとんでもない奴がいる」と憤慨する人たちには、私はいつも「そりゃあ国家等というものがなくなれば、そのほうがいいに決まっていますよ」と言って相手を鼻白ませる事にしている。

国の成り立ちは太古に遡る。元々は「共同生活そしている一つの集落」がその起源だろう。普段は交流のない隣の集落との間で、物の交換や争いがあれば、「我々」と「彼等」という意識が生まれる。その両者の関係は、大抵の場合は「友好的」だったと思われるが、人間には本来闘争心や征服欲があるので、暴力的に強い男性に率いられた集落が他の集落を屈服させるというケースも多かったと思う。しかし、負けた側は、よい狩り場や牧草地を追われて他の場所に移る事を余儀なくされるだけで、隷属させられるというリスクは少なかった筈だ。

しかし、農業が始まると様相は一変する。農業は、先ずは土地を耕し、灌漑を行い、種をまいてから収穫を得るまでじっと我慢する事が必要なので、ある程度の規模の集団が必要となるし、何よりもある程度の蓄えがなければ出来ない。ここに支配者と被支配者の関係が生まれ、「富の蓄積が自己増殖する」形が定着する。これは近代社会における資本主義の発展と軌を一にするものとも言える。

しかし、ここでも、先に述べたような人間の本性は争えず、隣接する農業集落の支配者間では抗争が日常茶飯事となる。そして、負けたほうには、別の土地に逃げるという選択肢が少ないので、殺されるか隷属するかの道しか残らない。元々は富の蓄積に対する誘惑の少なかった遊牧民族も、目の前に目も眩むような富が蓄積された城市があれば、略奪したくなるのが当然だ。また、その一方で、人間には自らの「神」を信じ、他の「神」を排斥する性向もあるので、この事を原因とする戦争も頻発した。こうして、人類の歴史は戦争の歴史となり、多くの国家が興亡を繰り返す事になった。

その後、航海術の向上と産業革命により、先進諸国は植民地獲得競争に入る。世界は広いので、狙いを付ける後進地域には事欠かず、これらの地域でお互いが衝突する事は少なかった。かくして、スペイン、ポルトガルに始まり、英国、フランス、オランダ等は海から、米国とロシアは陸路で、それぞれ後進地域を自国の版図または植民地に組み入れていった。しかし、小国に分立していたり、内陸に閉じ込められていたりしていた、ドイツ、オーストリア、イタリア等はこの競争に立ち後れたので、隣国と直接抗争し、これが第一次世界大戦を引き起こす。その流れで第二次世界大戦も防げなかった。

この二つの大戦の惨禍は、これまでの常識をはるかに超えるものだったので、「二度と戦争を起こしてはならない」という強い思いが世界に行き渡り、戦争を未然に防ぐ為の組織として「国際連盟」や「国際連合」なども出来た。しかし、その一方で、戦後支配権を東欧まで拡大したソ連は、共産革命を世界に広げる為のコミンテルンという組織を作り、これに脅威を感じた西側諸国と鋭く対立、「第三次世界大戦」勃発の危機が何度も囁かれた。その一方で、世界中の植民地では民族自立の動きが加速し、新しく多くの独立国が生まれたが、これらの国々では、各部族の対立や宗教的な対立から、数多くの内戦が今なお続いている。

このように歴史を俯瞰してみると、現在の世界の殆どの地域では、それぞれに主権を持つ独立国家が並存しており、国境を接する国家間には多くの「利害の対立」やそれがもたらした「紛争」がある。更にそれに加えて、同一国家の中でも、経済的格差がもたらした「階級」間の対立や、人種、宗教の対立がある。特に「人種的偏見」は、外国人労働者に職を奪われる事への危機感と相俟って、ネオナチのような極右運動にも発展しがちだ。そして、これらのあらゆる種類の対立が、しばしば暴動やテロという形で、多くの人々を殺傷している。

さて、人間が自分の所属する組織を愛するのは極めて自然な事だ。その組織に属する事の誇りが満足させられると驚喜するし、その組織を侮蔑したり損害を与えようとしたりする勢力が現れれば、団結して対抗する。この組織が国である場合は「愛国心」が、民族であれば「民族主義」が、会社であれば「愛社精神」が、それぞれのケースで発揚されるわけだ。しかし、それは、元来は人間の自然な情念の発露であるに過ぎないし、その強さはそれぞれの人によって相当異なるのが当然だ。

それぞれの国の為政者にとっては、国民が強い愛国心を持つ事は、二重、三重の意味で極めて望ましい。第一に、「愛国心」が旺盛であれば、全国民は対外的に団結し、戦争になれば兵士は勇敢に戦う。第二に、「愛国心」は、国内における階級闘争や宗教対立、少数民族の自立運動などへのエネルギーを薄める。そして、第三に、「愛国心」という言葉を梃子にすれば、各個人や会社が「グローバル経済の中での自らの利益の最大化」を全てに優先させるのを、国はある程度牽制出来る。

逆に、為政者が殊更に「愛国心」を鼓舞する場合には、当然の事ながらこれに警戒心を持つ人たちもいる。第一は、資本主義国の中で「階級闘争」を信奉する人たちであり、彼等にとっては「国家」より「イデオロギー」の方が大切なのは当然だ。第二は、国内の少数民族であり、彼等にとっては、自分たちが他の民族が主導する国家の一部に組み入れられている事自体が受け入れ難いものなのだから、「愛国心」などは持ちたくても持てないわけだ。排斥されやすい外国人労働者も同様だ。そして、第三には、グローバル経済を前提とする自由主義経済の信奉者たちだ。彼等にとっては、どこに投資し、どの国の労働者を雇用するかは、全て経済原則に基づいて自由に決定されて然るべきものであり、そこに「愛国心」等を振りかざす国の権力が干渉してくるのは迷惑至極なのだ。

このように見ていくと、現在の中国がなりふり構わず「愛国教育」を行っているのも、むべなるかなと思う。しかし、日本の場合はどうだろうか? 日本では、戦前、戦中に、徹底的な「愛国教育」が行われ、少しでもここで教えられている事に異を唱えようものなら、たちまち「非国民」のレッテルを貼られて、生活すらしづらくなる状態だった。この反動で、戦後はこのようなやり方を全否定する流れになったのは当然だったとしても、時には、国民の大多数が民主主義の手続きに従って定めた自らの国旗や国歌をすら、左翼系の教師が教育の場で否定するような、常軌を逸する行き過ぎもあった。

現在、日本が右傾化しているのではないかという懸念が全世界に広まっているが、こういう批判を受けた人たちは、「とんでもない。あまりに『国家』というものの重みを無視する連中がいるので、これを他国並に正常化しようとしているだけだ」と反論するだろう。しかし、行き過ぎを正すだけなら、国旗の掲揚とか、ごく当たり前の事をすればよいだけで、何も殊更に「愛国」を訴える事はない。また、もし中国等のなりふり構わぬ「愛国教育」への対抗という意図があるのなら、それは「愛国心の競争」ではなく、元来「排他的」なものである「愛国教育」そのものへの批判という形を取るべきではないだろうか?

それよりも、本来あるべき「教育の姿」を考えるなら、むしろこの機会に、「国とは何か?」という事を、若い人たちが自分の頭で考えるように促す事のほうが大切だ。現在の世界は、それぞれに主権を持つ多くの「国」によって構成されており、何人と謂えども、何れかの国の庇護を受けねば生活出来ない。しかし、それは必ずしも理想の姿とは言えないだろう。本来は、「人類は全て同胞」という思想の上に立って、世界に一つの連邦国家が樹立されるべきあって、その個々の構成要素(国? 州?)が何を基準に成り立ち、どのような権限を持つかは、柔軟且つ合理的に決められるべきだ。

世界が一つの憲法を持つ一つの連邦国家で形成され、その構成員は、人種、性別、宗教、信条などによって差別される事なく、立法と行政を担う指導者を選挙で選ぶ事が出来、構成員の全てに自由な経済活動と公正な徴税が保証されていれば、誰がこれに異を唱える事が出来るだろうか? そして、そうなれば、もはや「国家間の紛争」というものはなくなるのだから、「安全保障」の問題もなくなる。法を執行する為の十分に強力な警察力は必要とされるだろうが、大規模な軍隊や大量破壊兵器は不要となり、世界市民の経済負担は大幅に軽減される。

もしこのような最終目標を全世界の人々が共有するのであれば、現在の世界を構成している「国家」は、むしろ「過渡期間を統治する為の仮の仕組み」と見做されるべきであり、「愛国心」は過渡期間における「必要悪」という程度に考えられるべきだろう。そもそも「愛国」という概念は「排他的」なものであり、「愛国心の発揚」は、「国」の内外に何か「戦わねばならぬ敵」がある事を前提としている。世界の何処にも「敵対関係」というものが存在しない事こそが最終目標であるなら、「愛国」を声高に叫ぶのは若干気が引ける事であって然るべきだ。