原発問題については国論が文字通り二つに割れており、これがあまり関係のない都知事選にまで影響を与える事になった。国論が二分する事は別に構わないが、「結論が出ずに何も出来ない」とか、「一方が勝って他方の主張は頭から無視される」とかいう結果は避けねばならない。
私の周囲には、家族を含め、どちらかと言うと反原発派の人たちが多いので、少し言い難いが、私が最も良くないと思っているのは、反原発派の人たちに「科学的な議論よりも感情論」で決着をつけようとする傾向が強い事だ。これは細川さんや小泉さんとてあまり変わらない(もっとも、選挙演説では感情に訴えるしか手はないが…)。
どんな場合でも、先ずは「事実関係についての共通認識」を確立し、その上で価値観の議論をすべきなのだが、反原発派の人たちは意識してその前段を軽視しているかのようだ。だから、すぐに検証出来るような事に関してさえ、未だに正反対の事が繰り返して語られていたり、中には全くのデマが「訂正・陳謝」される事もなく、放置されていたりする。心ある反原発派の人たちは、健全な自浄能力を発揮して、自ら悪質なデマゴーグを排除すべきだ。
例えば「福島の惨状を見ながら、あなたはなお原発輸出を擁護するのか?」とTwitterで私につっかかってきた人がいた(これは、恐らく「それでも人間か?」というニュアンスの込められた言葉だと私は解釈した)。ちょうど良いケーススタディーになるので、今日はこの言葉に焦点を絞って議論を進めたい。
あらかじめ断っておくが、の私立場は「脱・原発依存」だ。以前のように「原発依存」を前提に出来れば、益田恭尚さんの1月30日付の記事を読むまでもなく、経済的には最もやり易いのだが、原発の周辺に居住する人たちの不安を無視する事は出来ない。これは沖縄の基地問題と似ている。「米軍に基地を提供する事が現時点では日本の安全保障政策上不可欠だ」というコンセンサスが仮に得られたとしても、沖縄県民が受け入れてくれなければどうしようもない。
なぜ私が「脱原発(原発ゼロ)」論者でないかと言えば、「再稼働をゼロにして更に削減を進めれば、経済的な打撃があまりに大きくなり、『経常赤字の定着 - 国債の暴落』という最悪の財務破綻シナリオが実現しかねない」という理由の為だけではない。それ以上に大きい私の懸念は、危ない原発を廃炉にしたり、使用済み核燃料を安全に保管したりするのに必要な技術者が払底してしまう事だ。この方が「稼働中の原発リスク」よりもはるかに大きいリスクである事を、反原発派の人たちは考えていないのだろうか?
本論に戻る。「福島の惨状」というが、この惨状が何故起こったのかという事は、本当に理解されているのだろうか? 私の見るところ、これは明らかに「人災」であり、「原発自体の脆弱性」によるものではない。原子炉の圧力容器自体は、強い地震にも(もちろん想定外の津波にも)耐えた。問題は冷却水を送り続ける事が出来なくなった事だ。考えてみれば、こんな馬鹿げた事はない。
原子炉は冷却出来なければ暴走する事は誰でもが知っている。従って、冷却の為に必要な全ての施設は、どんな地震にも耐えうるような強靭な建造物の中に納められ、どんな津波が来ても影響を受けない高い位置に設置されていて然るべきなのだ。この「施設」には勿論「電源」も含む。「電源」は全ての制御装置の為にもなくてはならないもの故、十分な二重性を確保し、更に、緊急時には近所から予備電源を運び込めるような手だても講じておくべきは当然だ。
放射能漏れがあれば人間は近づけなくなるのだから、データ解析と緊急対応の為の遠隔装置を完備しておくべきも当然だし、ロボットも駆使されるべきだ。にも関わらず、そういう事が殆ど何も考えられておらず、災害時のマニュアルさえ不十分で、その為にあのような惨事を引き起こしてしまったのは、一にも二にも、「万一事故があった場合は…」等という言葉自体が禁句になっていたという異常な環境下で「原発推進政策」が進められていたからだ。これを「人災」と呼ばずに何と呼ぼう。
このような馬鹿げた状況を抜本的に改めれば、原発の安全性は相当に増す。あのような惨事を引き起こしてしまった日本こそが、その反省の上に立ち、使命感に燃えて更なる安全対策の開発に全力を挙げれば、世界中の人々の安全にも大きな貢献が出来る事を意味する。原子力は勿論恐しいものだが、その恐ろしさに怯んでこれから逃げるのは、これまでの人類の歴史に照らしても、とても「まともな姿勢」であるとは言い難い。
原発の輸出に反対する人たちは、「そんなに恐ろしいものを外国に売るのは人道にもとる」と言わんばかりだが、その人たちがたまたま考えている「恐ろしさ」の基準を、他国の人たちにまで押し付けるのは傲慢以外の何物でもない。日本国内でさえ「とにかく恐ろしいから駄目」という人たちから、「リスクを計数的に把握して許容度を計ろう」と考えている人たちまで、意見は幅広く分かれている。外国については、その国の人たちの判断に任せるのが当然だ。
日本が止めようが止めまいが、今後とも発展途上国を中心に世界中で原発はどんどん増えていくだろう。そして、各国とも、原発の立地は冷却水が得られやすい海岸線に集中する。中国はその典型だ。中国で原発事故が起これば、日本の海は当然汚染されるが、日本はそれに対して何も打つ手がない。
当然の事ながら、原発設備の製造も色々な国でどんどん増える。原発どころか、原子力潜水艦や核兵器の生産さえもが継続しているのだから、「自分たちは怖いからやめました」というだけでは自分たちの安全は守れない。技術と産業をより安全な方向に持っていくように、自らも積極的に努力するしか、自らを守る道はないのだ。
必死で研究開発を進め、あらゆる角度から安全性を検証し、「安全性の高い原発」を求めている人たちに、自らの製品を自信を持って売ろうとする日本人がいるのなら、それにイチャモンをつける他の日本人がいる事が、私にはとても信じられない。
我々が逃げれば、我々よりももっと粗雑で、もっと良識に乏しい人たちが、世界の原子力関連技術と産業をリードする事になるかもしれない。現時点で最も頭の痛い「使用済み核燃料の処置」の問題も、その人たちに委せてしまえというのだろうか?
なるほど、全人類が原子力のような危ない技術に関わる事を或る日を境に一斉にやめて、経済活動の野放図な拡大も抑え、牧歌的なバランスの取れた社会での平和な生活を心掛けるのが、本来は理想なのかもしれない。しかし、先進諸国の人たちはそれでよくても、経済発展のサイクルに遅れてきた発展途上国の人たちは、それに甘んじる事にはとても合意しないだろう。
今は、大学で原子力工学を学ぼうという人は少ない。原子力は危険な物で、それに関わる人間は悪魔の手下だと言わんがばかりの人たちがいるからだ。しかし、こんな事で本当によいのだろうか?
ちなみに、半導体や電子工学を学ぼうという人も今は少ない。日本の半導体産業は壊滅状態にあり、電子機器メーカーも冴えないから、こういうものを学んでも就職口がないのではという心配があるからだろう。その代わり、バイオ関連は人気沸騰だ。文科省は技術立国促進の為にこれから国立大学に多額の資金を提供しようとしているが、この大部分も工学部ではなく医学部に回ろうとしているようだ。このように、日本人には、その場その場の空気で、一つの方向にみんなが雪崩をうって進んでいく傾向があり、そのあおりを食って、少しでも人気の陰った分野は、誰にも顧みられる事なく放置されてしまう。
しかし、考えようによっては、バイオの恐ろしさは原子力の比ではないかもしれない。「人工的に変異された遺伝子や細胞が、想像を絶するような危険なウィルス等を大量に生み出し、それが精緻な管理体制の網をかいくぐって研究室の外に流出、瞬く間に世界中に蔓延して、遂には人類の破滅を引き起こす」というSFの世界の悪夢が、かなり早い時期に実現しないとも言い切れない。だから、あまり科学的とは言えず、是々非々の議論が不得意な日本人は、やがては「バイオ研究は全面的に禁止せよ」と言い出すかもしれない。
原発に関連する論議に関連して、私が言いたいのは只一つだ。「感情論は抑えて、全ての事をもう一度科学的に考え直そう」という事だ。そして、どんな時でも「一方的な断定」はやめて、ましてや権力にものを言わせて強引に物事を押し進めるような事はやめて、異なった立場の人たちとも虚心坦懐に議論を戦わせ、バランスの取れた結論が導き出せるように、みんなで努力しようという事だ。原発に関する国の政策がどうなるかは、誰にとっても極めて重要な問題だが、お互いに罵り合うような性格の問題ではない筈だ