日本人の国際的コミュニケーション能力

松本 徹三

諸外国の人たちに比べれば十分過ぎると言ってもよい程の学校教育を受けているにも関わらず、同程度の教育を受けた他国人に比べて日本人の国際コミュニケーション能力は極めて弱い。これは何故か、どうすれば改善が出来るのかを今回は考えてみたい。


多くの人が「英語力の不足」をその最大の原因として上げるだろうが、それでは、長い間「英語」が必修科目となっている教育を受けながら、何故「英語力の不足」がなおも問題になっているのかを考える必要がある。私も「英語力の不足」は痛感しているが、それは問題の一面に過ぎず、「論理的思考の欠如」や「自己主張の意志と能力の不足」がそれ以上に大きいと考えている。そして、その原因は「英語力の不足」の原因と根を一つにしていると思っている。

先ずは「論理的思考」の重要性について考えたい。「言語や文化が異なる人たちとコミュニケートする時の共通の基盤は実は『論理』である」という事は意外に意識されていない。これは、実は「先入観や思い込みが強い人たち」とコミュニケーする時にも唯一の支えになるものだ。そして、残念ながら日本人はこれが全般的に弱い。

「初等教育においては論理的思考の訓練は『算数』でなされる」と考えている人が多いようだが、私は必ずしもそうではないと思っている。中等教育になって代数や方程式を学べば、確かに嫌でも論理的な思考をせねばならなくなるが、初等教育での算数は「分数(割合の概念)」を含む「数」の認識と「四則演算」が基本になるから、「論理」というところまではいかない。

初等教育における「論理」の学習はむしろ「国語」でなされるべきだ。そもそも「論理」というものは、頭の中で「言葉」に置き換えられるもので、それ故に大脳の論理中枢と言語中枢も同じ場所に位置しているのだと思うが、現在の国語教育ではその点は殆ど意識されていないように思える。言葉の持つもう一つの重要な機能は「情緒」を伝える事だが、この点は十分に意識されているようなので、特に「論理」の側面が弱く感じられるのかもしれない。

江戸時代からある落語等にも、親が子に、ご隠居さんが熊さんに、「ものの道理」を教えるシーンがよく出てくるから、日本人が基本的に「論理的にものを考える」のが苦手なのだとはとても思えない。日本語が論理を語るのにふさわしい言語ではないというような事も勿論ない。それどころか、「論理的思考」は、むしろ日本人が元来得意としている分野であるとさえ思う。日本人が精緻な工業製品を作るのに長けているのも、「忍耐強い」「手先が器用」というだけでなく、この「論理的思考」が十分貢献していると私は思っている。

それでは何故日本人の議論には論理性が欠如する事が多いのかと言えば、それは、日本人には基本的に「和」を重んじる気風が強すぎるからではないかと私は思う。「和」という言葉には「異なった利害を調整して折り合いを付ける」という意味合いがあるが、日本人の場合は、むしろそれ以前の段階、つまり「同質性を堅持して利害が生じないようにする」事を重視するようだ。

よく言われる「ムラ社会の掟に従う」「その場の空気を読んで言動に注意する」等の日本人固有の傾向は、全てここから生じているように思える。ここでは「論理」はあまり重要ではなく、むしろ邪魔になる。「全体の空気」が一定の方向に向かっているのに、「それは論理的ではない」等と言い出せば、みんなから白い目で見られて孤立し、同調者を得るのは難しい。「論理」に固執すれば「理屈っぽい」と疎んじられ、「青二才」として切り捨てられる。

近年に至るまで、海に囲まれた日本には異民族の侵攻がなく、ムラの掟に従っていれば大過なく過ごせた。それ故、世界共通語の「論理」で武装する必要もなかったのだ。明治維新に際しては、彼我の差があまりに大きかった為に、欧米の文化と技術を取り敢えずは無条件に取り入れるしかなかったので、話は簡単だった。しかも一握りの優秀な人たちが逸早くこれを日本流に翻訳してくれたので、これに頼っているだけでよかった。その結果として、日本の大学では早い時期から殆どの授業が日本語でなされるようになった(今になって考えてみると、これが却って仇になっている)。

ところが、ここへ来て問題が生じている。世界経済は急速にグローバル化し、その中で、ビジネスのやり方は米国流が主流になった。米国流のビジネスにおいては、「率直なコミュニケーションによる利害調整(Give and Take)」「市場経済、資本の論理、技術的中立性等の基本原則の尊重」「法と契約の遵守」がベースになっている。使われる言語は英語であり、ITが駆使される。このようなやり方で進められる国際ビジネスの現場に、欧米で教育を受けた発展途上国のエリートたちは極めてスムーズに入り込んでいくが、日本人の周囲には何故か何時も若干の「違和感」が漂っている。

日本人は、過去の一時期、欧米先進国とほぼ対等に全面戦争を戦い、終戦後は短期間のうちに技術力と経済力を高めて、これまた一時期は世界の産業をリードするまでの勢力になった。従って、日本人は、世界の人たちの間でも常に一定レベルの敬意を受けており、特に、「騙さない」「約束した事をきちんと守る」等の点では、世界のどの国の人間よりも大きな信頼を受けている。にもかかわらず、世界の政治経済、及び国際ビジネスにおいて、日本人が殆どリーダーシップを取れていないのは、この「違和感」故だと思っている。

従って、この「違和感」の原因を突き詰めて、それを正していく事が極めて重要だと、私は常日頃から考えて来た。そして、下記が私の結論だ。

1) スムーズに英語でコミュニケートする事に汲々とするあまりに、コミュニケートをする目的、つまり自分が何を勝ち得たいのかという「目的意識」が希薄になっている(欧米人が、喋っている日本人を制して、”In short, what do you want?”と聞きたいのを必死でこらえている姿を、私は何度も見ている)。
2) その原因はよく分からないが、「話が回りくどい」「論理性に乏しく、従って説得力に欠ける」「道義的な側面や日本の特殊性についての言及が不必要に多すぎる」「話が平板でメリハリに乏しく、従って面白味がない」と、日本人と話した多くの外国人が一般的に感じている。
3) その一方で、外国人慣れしている日本人に一般に感じられるのは、哲学思想の浅さだ。中には、欧米社会への同化を誇示したい為か、奇妙なところで必要以上にテンションが高くなって、これが却って「違和感」を高めているケースもある。

これに対する処方箋として、取り敢えず私がアドバイスしたいのは、
1) 先ず自分の目的意識を明確にする事。
2) 相手の事を十分に知り、相手の立場に立って議論を進める事。
3) 常にユーモアを忘れない(ゆとりを持つ)事。
の三点だ。

私は、これからの若い人たちに、是非共こういう姿勢と能力を身につけていって欲しいのだが、その為には「英語力」を強めると同時に「世界の歴史」を学んで貰わなければならないので、かなり道程は遠い。因に、「歴史」を学ぶ事は、「世界に通用する自分自身の思想哲学を持つ」為にも、「相手の立場を理解して、自分の議論をこれに合わせていく」為にも、極めて重要だ。

「英語力」については、「耳を馴れさせ、リズム感を身につけさせる初等教育」と、「論理力を磨き、プレゼンテーションとディベートの能力をつけさせる中・高等教育」に明確に分けて考えるべきだ。「何故英語なのか?」等という質問は今更しないで欲しい。エスペラント語(私は若い時に少しだけ学んだ)の理想は結局実現せず、英語が「デファクトの世界語」になっている現実には従わざるを得ない。

日本人なら誰でも、日本文化のどこかに格別な誇りや愛着を持っているのが普通だ。しかし、外国人とコミュニケートする時には、殊更にこれを前面に出さない方がよい。相手が同様の興味を持ってくれる確率はかなり低いし、時には「共通の価値観を持つ者同士の議論」という土俵から、わざわざ自分を外してしまう結果を招きかねないからだ。

この事は「日本固有の文化を軽視する」事にはならない。「独特の美しさを持つ日本文化」が世界中で理解されるような努力は当然続けていくべきだが、これは国際的なコミュニケーションとは別次元の問題だ。日本人は、自らの国を、「世界と向き合って肩をそびやかす日本」としてではなく、「世界の中でごく普通に存在する日本」として、常に意識すべきだ。