黒田日銀の1年で貿易赤字は拡大し、実質賃金は下がった

池田 信夫

黒田総裁の就任1年目の日本商工会議所講演は、支離滅裂で何をいっているのかわからない。特にわからないのは、物価と賃金の関係についての話だ。

時間当たり賃金の上昇率と消費者物価上昇率の推移を比較すると、物価が上昇している局面においては、基本的に、賃金の上昇率が物価の上昇率を上回って推移していることがわかります。そうならずに、物価上昇率の方が賃金上昇率を上回っているのは、1971 年以降では、1980 年の第二次オイルショックのときと、2007~2008 年の国際商品市況の高騰のときの2回だけです(図表 11)

彼はこの図から「インフレになると名目賃金が上がる」という因果関係を読み取っているが、「実質賃金=名目賃金-物価上昇率」だから、インフレのとき(実質賃金が等しければ)賃金が上がり、デフレのとき賃金が下がるのは算術的に当然だ。問題は、どっちが原因かということである。

図を見ると、1997年以降のデフレ局面では、まず賃金が急速に下がり、そこから数年おくれて物価がゆるやかに下がっている。これは吉川洋氏のいうように、賃金が下がったために製品価格が下がったのであって、その逆ではない。たとえば2000年から2002年までに物価は1%下がっているが、賃金は2.5%も下がっている。物価が1%下がったとき、賃金を2.5%も下げる鬼のような経営者がいるだろうか。

その逆に(雇用情勢の悪化で)賃金が2.5%下がったとき、それを価格に100%反映する経営者はいないだろう。2004年からの景気回復期には、まず賃金が上がり、それを反映して物価が±ゼロぐらいになった。わずかに物価の動きが賃金に先行しているのは、黒田氏のいう「供給ショック」のあった2007~9年だけで、これは彼もいうように例外だ。

つまり統計データが示しているのは、黒田氏の話とは逆に、賃金の低下によって物価が下がったということなのだ。これは脇田成氏など多くのマクロ経済学者が一致して指摘する日本経済の特異性であり、無理に物価を上げても賃金は上がらない。1月の実質賃金は前年比-1.8%になった。黒田氏が錯覚しているのとは逆に、物価が上がったら(名目賃金は上がらないので)実質賃金は下がるのだ。

これが浜田宏一氏の想定する景気回復メカニズムだ。彼がいうように「名目賃金はむしろ上がらないほうがいい。名目賃金が上がると企業収益が増えず、雇用が増えなくなるからです」。しかし浜田氏は「物価をどうして2%にしなければいけないのか、全く分からない」といい始めた。自分で火をつけた紙屑が燃え上がって火事になったら、「どうして火をつけたのかわからない」といっているようなものだ。もうリフレ派は四分五裂である。

はっきりしているのは、日銀の常軌を逸した金融政策には、株価を「期待」で(一時的に)上げる以外の効果はなかったということだ。成長率は公共事業が終わったら年率0.7%に下がり、貿易赤字は史上最大になった。これからアメリカの金利が上がって海外資金が引き上げ始めたら、長期金利が上がるだろう。そのとき200兆円のバランスシートを抱えた日銀には、もう逃げ場がない。これも常識的なマクロ経済学で予想できることである。