今月、『花咲舞が黙ってない』というドラマが始まります。このドラマは、あの大人気ドラマ『半沢直樹』の原作者・池井戸潤さんの小説『不祥事』『銀行総務特命』をドラマ化した作品とのこと。その主人公・花咲舞は「女半沢」と称されてまして、半沢ファンには期待大のドラマです。『半沢直樹』自体の続編のうわさも聞こえてきますし、今後もますます半沢ブームが盛り上がりそうですね!
しかし個人的には、『花咲舞』の話題や『半沢』続編のうわさを聞くたびに、去年のブームで残念だったことを思い出します。例えば、去年の『半沢』放映時には、
「日本には半沢のような人が全然いない!」
「みんなキリッとしろ! 半沢みたいに組織に立ち向かえ!!」
といった不満や嘆きの声を、ネット上でなんども目にしました。今後もこんな声が続出するのでは……。
また、その他の一部には、
「半沢はさっさと銀行を辞めたらいいのに」
「組織にこだわる意味がわからん。起業でもしろよ」
みたいな、半沢の素晴らしい存在意義を全然わかってない意見もチラホラありました。これも非常に残念です。
なぜ素晴らしいか? 半沢は「組織を変えたい!」と強く願っているからです。
なぜ「組織」にこだわるのが大事なのか?
われわれの組織には二つあります。「善き組織」と「悪しき組織」です。かの有名な『マネジメント』の著者、ピーター・ドラッカーは、組織をいかにして「悪しき組織」ではなく「善き組織」にするか、ということを生涯考え続けた思想家といっても過言ではありません。なぜそこまでこだわったか。「善き組織」は人を活かす反面、「悪しき組織」は人を殺すからです(しかも比喩でなく、ときには本当に「殺し」ます……)。
だからこそ、私たちにとって「組織」は生死を分けるほど重要なのです。確かに「個人の時代」だ何だとやかましい昨今ですが、やはり大多数の人は今後も変わらずなんらかの組織に属します。人と組織は切っても切れない関係のまま。
さらには、もしカネもモノも人材も集中する大企業のうち一つでも本当に「善き組織」に変わったら、これほど社会にとって有益なことはないでしょう。その恩恵のインパクトは、ノマドな個人がどんな偉業を達成したって比べものにもならない。
半沢は「大銀行を善き組織にしたい!」と願うからこそ人の心をつかむのです。その願いが実現すれば、組織で働く内部の人も、顧客となる外部の人も、大組織にかかわる大勢の人たちがみんな苦しまずに済むのですから。
しかし、ここで最初の不満や嘆きに戻ってきてしまいます。
まず、一部の意識高い系が叫ぶような、
「今日からオレらも半沢になろうぜ!」
なんてのは、残念ですがムリな相談です。そんなお題目だけで世の中が変わるなら、もうとっくにみんな幸せ。
それに半沢になれるのは、はっきり言って「変人」だけです。特殊な才能や人間性、あるいはこだわり(ドラマでは「父の自殺」の過去)が絶対条件。平凡なあなたも私も、大多数が半沢にはなれません(もちろん自信のある方のみどんどん半沢を目指すべき。これは前提です)。
でも、私たち全員が半沢になれないからといって悲観することはありません。そんなに必要としなくても、半沢のような「変人」は探せば必ずどこかにいます。ただ、今の日本社会では、どこにいても「変わり者」とか「一匹狼」とか呼ばれて疎まれてるだけ。そして、不遇の身で目立たないのです(半沢が実在しても、即「出向」が現実です)。
組織を変えられる「半沢」はどこかにいる。今、日本に必要なのは、それ以外の何かです。
そこで、閉塞感いっぱいの組織を変えるために私たち「凡人」に出来ることは何か。それは、私たちでも出来る範囲の「正しいこと」をするしかありません。
この正しいことをひとまず「凡庸な善」と呼びましょう。けれども、あまりにつまらない善を行っても、組織は決して変わりません。ならば、組織をガラリと変えるような、でも誰でも出来そうな、そんな凡庸な善があるのか。そんな凡庸な善を実践するお手本やモデルが、どこかに見つかるでしょうか?
実は、そのモデルはすぐに見つかります。本当にそこら中に見つかるのです。
今回はドラマの話題から始めましたので、ここでは『半沢直樹』のドラマからそのモデルを申しましょう。
すなわち、平凡な私たちは、
ときに大阪の中小企業の社長(赤井英和さん)や未樹(壇蜜さん)になり、
ときに近藤や渡真利(及川光博さん)になり、
ときに半沢の信頼すべき部下や上司になり、
あるいは半沢花(上戸彩さん)のような妻や夫になればいいのです。モデルにすればいいのです。そして、半沢直樹のような「リーダー」に手を差し伸べ、応援し、たまにダメ出しすらして、協力していけばいいのです。
もちろん中には、力や権威ある者の手前、表立って半沢のような人に協力するのがしんどい方々も多いでしょう。そのときは、隠れてコッソリやればいいのです。「凡庸」な善なのですから、助け方は各自出来る範囲で十分。
これこそ、私たちでも出来る「凡庸な善」です。平凡で現実的で、でもチリも積もればゲリラのごとく超強力なパワーとなります。そしてこの実践によって、私たちは「善き組織」を手に入れ、「理不尽に苦しまない自分の幸せ」を手に入れ、さらに家族・同僚やお客さまの「笑顔」も増えていく。
必要なのは、半沢でも花咲舞でもありません(もうどこかにいますから)。
必要なのは、半沢や花咲舞のような人を見出し、そして明示に黙示に力を貸す「パートナー」。そんな「凡庸な善」の実践者たちなのです。そんな実践者たちがそろってはじめて、世の「半沢たち」が真価を発揮するのです。
『半沢』や『花咲舞』に喝采を送る人は、今後もますます増えるはず。その気持ちを、これからは「凡庸な善」として表現してはいかがでしょう。
香月 健太郎