先日放送された『ホンマでっか!? TV』で「ソリタリー」が取り上げられ、それが一部で話題になっている。この放送を見て「救われた」と言っている人も多い。それだけ多くの人たちが「友だちがいないことは悪だ」という風潮に苛まれていたということだ。
「ソリタリー」については私の周囲ではあまり知っている人に会ったことがない。サラリーマンのような協調行動が重んじられる社会に溶け込める人たちや、童謡の「一年生になったら」に違和感を覚えない人たちは、こんなことを知らなくても生きていけるから知る機会もなかったのだろう。
「ソリタリー」というのは、簡単にいえば孤独が苦ではなく、むしろ孤独で居たいと思う性質のことで、この性質を持つ人は、友人を作ろうともしない。それはまったく必要が無いからで、私もその一人です。
以下に、脳科学評論家・澤口俊之氏の番組中の発言を引用する。
生物学をやっている人間にとっては常識なんですけど、「ソリタリー」を持つ人は必ず居るんです、人類史で。「ソリタリー」の方は友だちなんか作りたくないはずなんです。無意識に友だちを遠ざけているんです。「ソリタリー」というのは人類進化上、非常に重要な役割になっていたってことが最近の研究で分かっています。色んなところで一人でやるので、独自の考えを持ちやすいのと、同調しないし、新しいものを見つけたり、必要なんですよ。ですから「ソリタリー」の方が居ないと人類は進化しなかった、という進化論もあります。友だちなんか要りません。
私の母親もそうだったが、自分の子供に友だちが居ないことをひどく心配する親御さんは多いと思う。なぜ友だちを作ろうとしないのか、なぜ家で一人で遊んでいるのか、それを責め立てることもある。熱血漢ぶった教師にもたまにこういうことを言う人がいるが、不勉強でとても愚かだと私は学生の頃に思っていた。
多くの人が何故か友だちが多いと優位性が高いと思っているが、それは何の根拠もない恥ずかしい考え方である。こういう考え方をする人は自分の考え方が世界の全てだと思っているのか、他人の意見をなかなか受け入れない傾向にもある。自分と違う意見が出た時に自分の意見を何としても通そうとして終いには支離滅裂な反論までしてくる。多様性と様々な可能性を考える時間を得てこなかったとてもかわいそうな人たちだと思う。
環境評論家・武田邦彦氏の番組中の発言を引用する。
芸術家は友達が居なくて孤独というのが歴史上いっぱいいる。どういうことかと言うと、外から入ってきたときに他の刺激があると自分の中で成長しない。外から来たものを成長させる為には孤独でなければいけない。芸術家はご飯食べに行ったりそういうのはダメな時間になっちゃう。つまり自分の体の中に入ったものが成長している途中に、他の外乱が来るから、そこからもう一つ高いところにいけないので、嫌うんです。
自分が芸術家だとはもちろん言わないが、外から入ってきた情報を反芻してしっかりと自分の糧にする時間は必ず必要で、それは孤独なことが一番効率が良くて、整理される。武田氏も言っていたが、友人との時間は有意義ではない、邪魔なものです。
よく、他人と話すことで思考が整理されると言う人がいるが、それは外乱を得てその情報量に満足しているに過ぎず、その人にとっては何の糧にもなっていない。あくまで得た情報に過ぎないので、そこに独創性も一貫性もなく、ラジオでしかない。こういう勘違いした人はとても多い。多くの人と会い、多くの話をすることが成長に繋がると言っている人はちょっと足りていなくて、その分、より孤独に考えを巡らせないと意味が無い。
また、放送の中で、「ソリタリー」は遺伝性が高いと言われている。父親も私と同じで友だちを作ろうともしない人なので、私は遺伝なのだと思います。この放送を見て、「救われた」と言っている人が多いのだが、やはり私が学生の頃に責められたように、友だちを作ろうともしないことを責められてストレスに感じていた人は多いのでしょう。「友だちを作らなきゃ」という強迫観念による「小児うつ」も増加傾向にあるという。周囲の無知とは怖いものです。愚かです。
それに、友だちを多く作ろうとする人は、精神的に弱い傾向にあると心理評論家・植木理恵氏も番組中に語っている。これは経験則から私も感じていたことだし、同じように感じていた人も多いでしょう。集団の中で優位に立ってきた人は一人になろうとしない、弱いから、負けるからだ。友だちが多いことを振りかざすような人間は弱い愚かな人間だと思って相手にしなければいい、「小児うつ」になるまで悩む必要なんてないです。
ちなみに、友だちがほしいのにどうしてもできないのは、「ソリタリー」とは関係がありません。どこかに人間としての欠陥があるのでしょう……。
土屋 義規
合同会社materialize
代表社員