社会科学系の言葉で定義が難しい言葉といえば、「政治」と「社会学」が挙げられます。それらと同じくらい定義が難しい言葉が「教養」です。
その具体的な定義文は示せないのですが、私の理解によれば、現代で「教養」とは、樹木に例えると、幹以外の部分に相当するものだと認識しています。
そもそも現代人は成長すれば自らの業務範囲においては何らかの「professional」になります。プロ棋士や医師といった就くことが難しい職だけでなく、小売店や工場の従業員も自らの業務範囲においてはプロであり、プロ意識をもつ必要があると考えられます。専業主婦とてプロ意識をもつ必要があるのかもしれません。
現代ほどの専門職が存在しなかった前近代では、農業を中心とした非専門的な活動(業務間の垣根が低い活動)が展開されていたと考えられますが、職業の専門化と分業化が進んだ近現代では、それなりの年齢になれば基本的には自らの職掌に専念するのみです。現代人は、それぞれがプロに頼りながら生きているといえます。
もっとも、自分の専門分野について詳しいことは職業人として当たり前のことであって、それは多くの場合、教養とはいえないでしょう。教養とは自身の中で主に補助的な要素を構成するのであって、実務の根幹ではないと思われるからです(博識な作家や教養課程の教授のように自らの専門分野が漠然としている場合は、それ自体が教養と呼べるのかもしれません)。
ここで、例えばPCのエンジニアが技術だけでなく美術にも詳しかったら、その人は教養のある人といえるのではないでしょうか。かつてスティーブ・ジョブズ氏がカリグラフィー(西洋の装飾文字)を学んでおり、それがAppleの製品開発にとって役立ったとスタンフォード大学の卒業式で語ったことは有名な話です。これは教養が役立った最たる例でしょう。
繰り返しになりますが、樹木でいうと、専門分野について詳しいことは自分の「幹」であって、それを根っこから支えたり、あるいは樹木全体の生存にとって大して役に立たない枝葉が教養に相当すると私は考えます。
前記の「根底から支える」というのは、例えば大学生として妥当な思考枠を身につけるにあたっては、教養としての哲学は役立つということです。小売店の従業員についても商品知識を豊富に有しているだけでなく、接客対応も優れている方が大成しやすいでしょう。
そう考えると、人間を根底から支えてくれる場合の教養というのは、年号や固有名詞を大量に暗記しているというよりは、読書や研修・留学を基に身につけられた経験知(この場合は思考力や理解力、姿勢、話し方など)だといえます。単に情報を蓄積したり与えられた数式を解いたりするだけならコンピュータの方が明らかに優れているので、人間は問題の発見やコンピュータに与える要件など、コンピュータが創造的に遂行できないことを身につける必要があるでしょう。
ただ、教養には、いつ判明するのかは分かりませんが、役に立つモノもあれば、役に立たないモノもあります。また金銭面では役に立たないとしても、精神の安定には役立つ教養もあるでしょう。
金銭の増加は一定ラインまでは人の幸福感と相関があると考えられますが、どこまでも同じ伸び率で比例し続けるかといえば、それはないでしょう。直観的に考えても「世界一の金持ち=世界で最も幸せな人」と決めつけることは無理があります。
お金だけで幸せが必ず成り立つのなら人間は実利的なことばかり摂取すればよいわけですが、そうでもないからこそ様々な可能性がある教養を身につける必要があるのではないでしょうか。
『近代:社会科学の基礎』著者(個人事業主)
酒井 峻一
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