この記事の表題は、前回の記事を読んでくれた細野嗣雄はんのコメントから引用している。
ありがとさんです。アゴラもしばらく見ない間に面白い人が増えたなぁ。ワシもウカウカしてはおれん。
オボちゃんこと小保方博士。ワシの若い時にソックリやとつぶやくと、2種類の反応帰ってくる。「いくらなんでも可哀想ですよ。科学者としての死刑判決に等しい言われ方ですから」というのと、「厳密には死刑判決とは言えへん。死刑執行や」という反論や。
関西に生息。大学がOA型入試。不器用なくせに目立つの大好き。情けないことを言いながら開き直る。沈没するときに周囲を巻き込む。やばくなると突然消える……確かに共通点が多い。ヨハネス山城のツラの皮に、「紅茶ぐらいの酸」をかけて培養すると、やがて割烹着姿の幹細胞が……やかましぃわい。
捨て論文の話やったな。なぜ、あれを捨て論文と推定するか、ということを示そう。最初に定義の確認。「捨て論文」とは、「初めから掲載されることを想定せずに、専門誌に投稿された論文」やったな。
その中で、小ネタをとりあえず一流誌に送る「記念受験型」、スピード重視で実験結果以外は手抜きで仕上げる「ツバ付け型」、業績がないとき苦し紛れにやる「アリバイ型」の3つのタイプがある。今回のはおそらく「ツバ付け型」や。
問題が発覚したのは無断引用やった。なぜこうなるのか、論文作成ということの内情を少し解説しましょ。
執筆中に引用部分が出てきた場合、独自の記号などを入れながら書いていくのが普通や。たとえば、本文で「ゴジラとガメラは、遺伝子上は同一である【A】が、モスラは……」などとしておいて、別のファイルに
【A】STAPで育てるゴジラとガメラ、J.Yamashiro,et.al.,Naturen,36,2015.5,129-512
【B】常温超伝導磁石による常温核融合、山城よしお、無理科学研究所紀要,7,……
【C】…………
のようなリストを作っていき、作業の最後の最後に投稿誌の書式に直す。最初からきちんとした書式でやると、かえって校正時にグチャグチャになりやすい。
ここいらへんの処理方法は、研究者ごとの流儀や、チームの掟(=ボスの好み)で決まる。理研あたりなら、研究所全体の統一ルールがあってしかるべきやろ。そうでないと、別の論文でリストを再利用(全く正当なことやで)する時や、学会での口頭発表時に、結構いやらしい混乱がおこる。
今なら、エクセルのマクロかなんぞで効率化したやろが、正直言うて、論文作成の中で一番面倒でつまらないヤボ用や。でも、これは必ず片付けておかなアカン。
たとえば、もし、ワシのこの記事で最初のパラグラフがなかったら、引用された方はかなり気分が悪いやろう(現状でも気分が悪かったらすんまへんな)。ましてや、引用回数が給料袋の厚さ(いつの時代や)を決める学者の世界では、「ワレ、どこに目ぇ付けて研究しとるんじゃい。ちょっと顔を貸さんかい」という事になる(どんな学者や)。
長い論文の、これまでの科学史的な経緯を紹介して自分の研究の位置づけを示す序論部分は、引用の固まりになるのが普通や。別に悪いことやない。
ちなみに、この部分を丁寧にしっかり作り込んでおくと、ゼミなんかで教科書的に使われて、うまく行くと世界中で名前を覚えてもらえる。ワシかて、初めて読んだ(=読まされた)英語論文の著者に会った時、サインをねだってビックリされたことがある。
純情なやつほどグレるとたちが悪い(ヨシオの第一定理)。
一刻を争う執筆で、こんなところに手間をかける奴はおらんが、既出の論文をコピペしたら、少しは文章に手を入れて引用記号も付けて、最低限の仁義は切っておくべきや。そやからチーム・オボちゃんは、少しの手間を惜しんで現著者に失礼極まりないことしたわけや。自分の論文をネーチャーへ引用した上で無視されても心静かでおられるなら、学者よりも坊主にでもなったほうが適性がある。
ところが、これが捨て論文やと話が変わる。どうせ掲載されんのやから、仁義など気にせず手を抜きたくもなる。上の例で言えば、【A】などの記号を消して、そのまま投稿するという荒技も出かねん。ただし、こういう「形になりにくい所」でキッチリ仕事するのが日本人(特に職人はん)のエエ所やし、結局は身を守ることに繋がると思うがのう。
次に、昔書いた博士論文の関係の無い画像が紛れ込んだ件。意図的に捏造をするのなら、わざわざ既発表の画像を使うとは思えん。ありそうなのは、ページ編集用のテスト画像からの差し替えミスや。
同じような例は、数年前、東京大学の入試で、東大新聞がWEB合格速報に、テストデータの画像をそのまま出してしまった事件や。発表の合否が間違っていたという、ものごっついトラブルや。「お母さん、合格したよ」と電話してきた息子から数分後に……オレオレ詐欺みたいな騒ぎになるが、本人や家族にしたら絶対に笑い事では済まん。
こういうミスは、テスト画像にデカデカと「SAMPLE」の文字を入れておくか、全く関係のない自分の顔写真でも使えば簡単に防げる。たいした手間やない。
画像に細工をした件は別として、今回のトラブルの大部分の原因はズボラやと思う。
ノーベル賞級の大仕事をしているつもりの研究者が、ましてやチームが、こんな手抜きをするわけがない。意図的な捏造を考えている手合も逆の意味で同様や。なにしろ、ボロが出て注目されたらアウトなんやから。大量の麻薬を運んでる車がスピード違反をせんのと同じことや。
ところが、掲載されないことに絶対の自信があれば、何も恐れず腰を据えてズボラができる。「悪いことだという認識がなかった」というピントのぼけた発言も、捨て論文を作っている人間なら言いかねない。何しろ、「この原稿は絶対に人目にふれない」と、タカをくくってたのやからな。「悪いのはネーチャーさん、こんなの載せないでよ」という本音が発言の背景にあるように思う。
ちなみに、博士論文かて状況次第で捨て論文になる。審査が終われば博士論文は大学のどこかへお蔵入りや。本人すら、原本がどこに保存されているやら知らん場合も多い。
そやから博士論文を書いたら、普通は手直しをして専門誌に投稿する。
こういう使い回しは公認されているが、「ツバつけ型」が発生しやすい構造ができる。ひとたび「ちゃんとしたのは後で書く」と思いはじめると、「とりあえず手抜き」の誘惑に負けやすくなるのが人間や。めでたく一本の捨て論文と、「捨て」経験のある一人の博士が誕生する。
おそらく、今回のSTAP論文は、少なくとも、オボちゃん本人の主観では「ツバつけ型」やったんやと思う。近いうちに本番の投稿がある「記念受験型」や、業績は無いがヒマはたっぷりある「アリバイ型」では、リスクの多い手抜きはおこりにくい。
一方、ライバルより一秒でも早く、自分の業績(と思うもの)を形にしたいと、駆け出しの研究者が「ツバつけ」に走って、指導教員にたしなめられるのはよくある話や(ワシもじゃ)。
だから、時間に追われて研究をしたことがある人間なら、多かれ少なかれ同情したくなる。武田邦彦センセが「写真違っていたなら『眠たかったから』と言えばいい」などと言わはったのも、こういう背景があるように思う。
正直、ワシも気持ちだけは、ようわかるつもりや。可哀想に。
次に、Discovalley@Discovalley2000はんのツイート。確かに、最初から理研全体が捨て論文を黙認していたとは思えん。そやから、「捨て」であるとの認識は、せいぜい共同著者一同だけの話やろ。
誤解を与えたとしたら申し訳ない。書いていたとき、ちょっとばかり眠かったからな。で、次回は、ここいらへんの話を少し詳しくするつもりや。
最後に引用について、ついでにもう一言。あまりにも有名になった業績は、学会の常識となり、引用処理を省略するようになる。「自分の業績が、いちいち引用を書かれなくなってきたので、そろそろだと思っていたらノーベル賞が来た」という話がある。科学者なら、一度、言ってみたい台詞やで。引用としないのが最高の賛辞というわけやな。
よって、次の決め台詞の引用処理も、今回を最後とするで。
今日はこれぐらいにしといたるわ(by 池乃めだか)。
帰ってきたサイエンティスト
山城 良雄