「残業代ゼロ」を批判する朝日新聞に残業代はない

池田 信夫

また朝日新聞が「『残業代ゼロ』一般社員も」とか下らない記事を書いているが、これは小泉内閣のとき朝日などが騒いでつぶしたホワイトカラー・エグゼンプションの焼き直しだ。


こういう変な名前で出した財界もセンスが悪いが、それをつぶした朝日新聞はもっと悪質だ。なぜなら朝日も含めて、新聞記者にも放送記者にも「残業代」なんかないからだ。私のいたころから、NHKの記者は(他社と同じく)特定時間外というみなし勤務で、職場ごとに一定の手当をもらっていた。そもそも記者は、ほとんど外回りで「出勤」とか「労働時間」という概念がないので、残業時間なんか測れないのだ。

労働時間も残業も、工業時代の遺物である。ネットメディアに勤務時間はないので、残業という言葉は無意味だ。インターネットは既存メディアを破壊するだろうが、それ以上の規模の産業を建設するかどうかはわからない。利潤は独占レントだから、既存メディアのボトルネック独占をなくすことによって、ネットメディアは完全競争に近い利潤ゼロの世界を生み出す。それが企業にとっていいことかどうかはわからないが、消費者にとっては間違いなくいいことだ。

JBpressにも書いたように、マルクスも苦役としての「労働時間」を短縮することを理想としていた。彼のめざしていたのは「労働が単に生活のための手段であるだけでなく、それ自体が第一の生きる欲求となる」(『ゴータ綱領批判』)社会だった。これは労働の「疎外」を論じた若いころから晩年まで一貫していた。

それは「協同組合的な富のすべての泉から水が満々とあふれる」ことによって稀少性が解消されるユートピアの話だが、ソーシャルメディアでは情報の稀少性はなくなった。多くの人はブログやSNSで生活することはできないが、それは問題ではない。そこでは労働は手段ではなく、目的だからである。

日本が「ものづくり」を卒業してめざすべきなのは、残業代どころか賃金も労働時間もない自由の国である。労働と余暇の区別がなくなり、人々が好きなとき好きなだけ働き、疲れたら休む――それは空想的なようにみえるが、ほんの200年前まで、すべての人々がそういう生活を送っていた。江戸時代には、タイムカードも残業もなかったのだ。