カトリック教作家・遠藤周作は「沈黙」のセバスチャン・ロドリゴの書簡の中で、「支邦人たちの大半は、我々の教えにも耳を貸さぬとのことです。その点、日本はまさしく、聖フランシスコ・ザビエルが言われたように、『東洋のうちで最も基督教に適した国』の筈でした」と語らせている。
ザビエル師の宣教から600年余り経過したが、「東洋のうちで最も基督教に適した国」のはずの日本のキリスト教人口は依然、1%以下に過ぎない。その一方、隣国・韓国では国民の3分の1がキリスト信者だ。「教えに耳を貸さない」といわれてた支邦人(現中国)では2000万人余りのキリスト信者が存在するといわれている。ザビエル師の眼識は残念ながら大きく外れたといわざるを得ない。
以上は、宗教別統計に基づいた話だが、キリスト教が定着できなかった日本は生来、野生で荒々しく、利己的で攻撃的な民族か、というならば、「日本民族ほど倫理観の高い民族はない」といわれるほど、その民族の資質の高さは世界からも評価されている。ザビエル師自身も日本民族の質の高さに驚きを表明している一人だ。
キリスト教の伝達は未開発国の啓蒙と発展に貢献したことは事実だが、民族の精神的発展のためにはキリスト教の教えが不可欠とは言えない。キリスト教が定着しない国でもその民族の倫理性、道徳性が開発されていったケースはあるだろう。世界第4番目の無宗教国家と言われる日本などはその代表的なケースかもしれない。
「結婚はチャペルのあるキリスト教会で、子供の七五三には神社にお宮参りし、そして葬式は仏教式で行う」
一般的な日本人の宗教への姿勢について語る時、少し軽蔑の思いを込めてこのように表現される。
ローマ・カトリック教会には、「イエスの教えを継承する唯一、普遍的なキリスト教会だ」という「教会論」がある。俗に言うと、「真理を独占している」という宣言だ。だから、キリスト教の神を信じながら、同時に他の宗教のイベントも実践するといったことは欧州人には理解できない。
稲作を中心とした社会共同体の中で相互助け合ってきた日本人は自然を崇拝する気質を育み、共同体の一員としての倫理観も発展させていったのかもしれない。また、日本社会は恥の文化だ、という指摘も聞く。
問題は、倫理、道徳では消化できない課題に直面した時だろう。例えば、大地震などの天災、生死の問題などだ。また、倫理・道徳は時代の要請に基づいて構築されている場合が多いから、時代が変われば、その規範とすべき内容も変わっていく。特定の宗教を持たない社会では、世俗化が進んでいった場合、その歯止めが利かなくなる危険性も出てくる。これは無宗教の日本人社会が直面している問題だ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年4月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。