連載 GPIF改革の論点 4 ガバナンスとは透明性でも説明責任でもない

小幡 績

ガバナンスの本質については、前々回、議論した。最も重要なのは、ガバナンスをかける主体で、それが優れていなければ、何も始まらない、ということであった。

では、優れたガバナンス主体がいたとき、次にどうすればいいか。優れたガバナンス主体とは、自分の真の目的を理解しており、冷静に普通のことを判断でき、またその判断に対して時間もエネルギーも十分投入する意思がある主体のことだったが、彼らはどうやって、自分の目的である公的年金の資金運用を専門組織に委ねればよいか。

一般的には、ガバナンスとは、透明性を確保し、説明責任を果たさせることにあると思われている。

誤りだ。

これが組織を殺している。ガバナンスをかける対象を殺してしまっているのだ。


我々は、何のために委託人に何を委託しているのか。企業経営で言えば、株主が経営陣に何を期待しているのか。GPIFに国民は何を求めているのか。

それは長期の安定性の下でのリターンである。投資収益である。そして、透明性と説明責任は、このリターンを殺しているのだ。なぜか。

まず、これまでも述べてきたように、これまでのやり方は、政府、構成労働大臣を通じて、出資者である国民は、GPIFの投資方針に具体的な大枠をはめる。安全で効率的な運用を求める、ということになっている。そして、安全とは、国内債券並みのリスクということになっている。効率性の解釈はいろいろありうるが、コストをできるだけ低くして、リスクを高めずにリターンは可能な限り高く、ということであると考えられる。投資においては、リスクとリターンは連動し、多くの場合は、リスクを取るという行為を売ることによってリターンが得られることになっており、リスク許容度を上げれば、リターンは取りやすくなるのであり、それではもともとの意味がないから、リスクを抑えたままでリターンを最大限とるように努力せよ、ということなのである。

そうなると、リターンが上がったのはいいが、リスクを闇雲にとった結果ではないか、という疑いが生じてくる。その結果、透明性を要求する。勝手な行動を取っていないか。実際には何をやっているのか。可能な限り開示せよ。透明性が確保されなければ、信用できない、任せられない、ということである。本来は公的年金の運用の透明性と言ったときに、出資者である日本国民の公的年金加入者に対するものと、広く一般に、世界中の人々へ向けての透明性ということもある。巨大な資金を持つ投資家が世界の市場をかく乱して儲けるのを抑えるためである。ソロスが有名であるが、アグレッシブな投資行動をとるヘッジファンドに対する疑心暗鬼と同じことである。しかし、ここでは、出資者への透明性ということに限って議論する(そして、年金の議論に置いては、これしか重要でない。ヘッジファンドなどを含め投資家行動の透明性に関しては、すべての投資家の議論になるからだ。しかし、このような注釈を付けなればいけないほど、政府ファンドと呼ばれる公的資金による投資機関への警戒は投資業界にはある。あるいは透明にして、カモにしようとしている、利用してやろうとしている、という面もある。これは別に議論したい)。

透明性には、今何に投資している、資産がどのようになっているか、今後どういう投資方針で行くのか、という業務執行の進行中のオンタイムの透明性もあれば、事後的な透明性というものもある。例えば、私が務めて運用委員による運用委員会の議事要旨が、委員会後速やかに(実際にはおおむね1ヵ月後)公表され、詳細な議事録は、7年後に後悔されることになっている。日本銀行の政策決定会合の議事録は10年後に公開であり、同じような考え方である。議事要旨と議事録を公開することで、実際にどのような議論が行なわれ、どのような考え方で投資、運用を行なったかを知ることができる。これが透明性の確保である。

これは、事後的な説明責任をGPIFに要求することで、過去の運用、投資行動を分析、解明し、必要に応じて責任追及するための手段の確保という観点がある。投資はうまく行くこともあれば、事後的に見れば失敗だった、ということもある。運の要素もあるし、予見できなかった環境変化もある。失敗をすべて責めて立てても意味がない。事後的な説明責任を負わせることで、意思決定当時は合理的で、ベストと思われたものである、という説明が筋の通った、理解可能なものであれば、それは監視する側、ガバナンスをする側も納得するというものだ。

これらの透明性を確保し、説明責任を果たさせることで、資金委託者である運用機関GPIFへの信頼が担保され、それで初めて資金委託が可能になるということだ。

しかし、透明性を確保するのであれば、なぜ公開が7年後なのだろうか。7年間隠しているのだから、それは不透明そのものではないか。今から7年後に、小幡の発言をチェックしても時既に遅し、彼が悪い運用委員だか、良い運用委員だったか、7年後に分かっても、今更どうしようもないということだ。説明責任は、今すぐに果たさせるべきで、今間違っていれば今正すべきだ、というのが本当ではないだろうか。

実際、即時公開という考え方もある。運用委員会も公開してやるという考え方も、理論的にはありうる。実際、政府の審議会、私も参加した金融の中期ヴィジョンの審議会では、それが一般公開で行なわれ、多数の金融機関の職員が傍聴した。

しかし、運用委員会に関しては、それはナンセンスで、世界中どこでもそんなところはない。それはなぜか。公開したら、投資の手口、手法、意図が即座に分かってしまい、行動を読まれ、先回りされてしまうからだ。GPIFが明日日本株を買うと分かれば、今日買って置いて、GPIFが大量に買いにきたところで、値上がりした高値で売りつけると言う行動が他の投資家に可能となるからだ。だから、まともな投資家で、自分の手の内を明かす投資家はいない。

手の内を明かす投資家がいたとすれば、それは意図的にやっている。それは情報操作だ。つまり、有力と目されている投資家がいて、市場でこの投資家の行動が注目されていたときに、静かにある企業の株を一定程度買い、その後、うちはここの株を買った、という情報を自ら、あるいは噂として広めれば、追随する投資家が殺到する。彼が選んだ株は有望株だ、ということで買いが殺到するのだ。この有力投資家は、そこで売れば、確実に儲かる。だから、十分自分で勝った後は、情報を流して、相場が上昇するようにする、ということはありうる。

これは、相場操縦かどうかは微妙なところであるか、いずれにせよ、このような意図を持った場合意外は、自分のポジション、つまり、資産状況や投資行動、これからも予定を公開する投資家はいない。GPIFも同じことで、先読みされては利益を上げる機会を失うから、具体的な投資行動を示唆するような情報は、その情報の価値が市場に置いてなくなってから、しかし、出資者による事後的なチェック、説明責任を求め、事後的な透明性を確保するという目的には依然有用なときに、公開するのである。それが7年後ということだ。

これは大きな矛盾を示している。ガバナンスの基本とは透明性と説明責任である一方、この二つは、本質的に、投資でリターンを上げることの障害になっている部分があるということだ。透明性を確保すれば、前述の翌日の先回りということまではなくとも、広い意味での先回りはされる。現在、GPIFが株を買う方向に「改革」するということで、株価が上がるというのは、先回りされていて、上がった高い価格でGPIFは株を買わされるということだ。だから、具体的なポートフォリオ、投資行動を議論の俎上に載せて改革議論するのは間違っているのだ。

また、説明責任も罪が重い。大きな損失を出したときに、事後的に説明を求められることになるが、このとき、ベンチャー企業などの未公開株を買っていたときと、上場されている大企業の株式から構成されるファンドに委託していた場合や市場全体を現すインデックス(例えばTOPIX)に連動したポートフォリオで買っていたときとでは、どう違うだろうか。もちろん、後者の方が楽だ。

だから、インデックス運用や上場株式など時価が存在する投資商品に投資を行なうのである。これは、一見透明性が高く客観的に評価しやすいため、望ましい投資手法だと思われるかもしれない。時価があるということは、時価で買えば、その後、値下がりして損失が出たとしても、仕方がない、時価にすべてのことは織り込まれていた、みな同じ価格で買っていた、だから、自分個人の、あるいはうちの組織だけの責任ではない、と言い訳しやすい。これは年金運用に限ったことでなく、ほとんどすべての運用者がとる行動だ。出資者というのは、損が出たらパニックとなりヒステリックになる。そのときに、上手く責任逃れ、追求逃れをするには、客観的に説明できる商品に投資するに限る。あるいは事前に公表していた通り運用するに限る、ということになる。

さらに、ベンチマーク運用ということも行なわれる。これは、日本株式へ投資したときに、市場全体を現す指標として、例えばTOPIXなどの変動と比較して、どれだけそれを上回ったかを見ることで、運用を委託した運用者の能力、パフォーマンスを測るということである。同じような観点から、他のファンドの運用成績と比較することもある。ライバルの運用者に比べてどれだけ上回ったか、相対的にどれだけ優れていたか、それにより、運用者の能力、パフォーマンスを見ようということだ。

これは一見合理的であり、当然のことのように思われるし、ちゃんと頑張らせるには良いやりかただと思われるだろう。

しかし、ベンチマーク運用によってもリターンは犠牲になる。ほとんどの運用者がそうだが、他の運用者がどうやっているかを異常に気にするのである。損失を出して責められた時に、みんなやっていました、市場が突然暴落したんで仕方なかったんです、と言い訳しやすいからである。リーマンショックの影響で、、、という枕詞は、運用者の言い訳だけでなく、多くの企業経営者の業績報告に冒頭に付け加えられたが、それは便利であり、この便利な言い訳を使うために、みんなと同じ動きをするのである。だからバブルが生まれ、バブルが崩れる、プロだけが投資していたリーマンショックでの複雑な金融商品でもバブルが生まれ崩壊したのだ、というのが私の説だが、私のバブル理論モデルはともかく、それはいいことは何もない。みんなが買っているから割高なときに買い、みんなが投げうっているときに売るからだ。

ベンチマークも同じことだ。TOPIXに連動させるために(ちゃんと連動しないと運用者として不適格だと怒られる、パッシブファンドと言われるものにおいては)、TOPIXに加わった銘柄は買わなくてはいけない。上場の継続に疑問が呈せられ、いわゆる管理銘柄になったような銘柄は、ほとんどの運用者は購入できない(そういうルールで委託を受けていることが多い)が、そのような銘柄でも、形式的な要素で管理銘柄になり、復活すると思われる銘柄を買う大チャンスなのだが、そういうことはできない。管理銘柄を買って、それが外れて損失が出たら、後でとことん責められる、倍になるチャンスを逃したところで、自分の金でないから、それなら怒られない方がマシだ、ということで、リターンを犠牲にして、安易な説明責任を優先させる。これが運用者の心理、行動パターンだ。

したがって、ガバナンスをかけるということは、客観基準により監視をするということは、多くの実利を失うと言うことなのだ。

しかし、そうは言っても、オカネを預けるのだから、信頼を得るためには、国民から見れば、信頼するためには、透明性、説明責任を確保し、無駄遣いしない、事前に投資方針を縛っておくということをしないと無理だ。ということになるだろう。多くの有識者と言われる人たちもそう思っている。

間違いなのだ。本末転倒なのだ。逆なのだ。

信頼できないから、ガバナンスなどをかけなければいけないのだ。厳密に言えば、リターンを犠牲にするような杓子定規な形式的な、外形標準による縛りをかけなければ信用できない、信頼できない、というようなガバナンスをかけなければいけないのだ。

そんなガバナンスをかける時点で、投資としては負けである。

信頼を得るためにガバナンスをかけるのではなく、信頼できる相手に、必要最小限のガバナンスを付与するのだ。

信頼を得ることこそが、ガバナンスの目的であり、ガバナンスは手段であり、信頼を得るためにガバナンスをかけるのは逆なのだ。

そして、本来のガバナンスとは、最高の人材を選び、最高の組織を構築し、あとはすべて信頼して任せる。その信頼を裏切らないようなメカニズム、万が一間違った場合は交代させるなどの最終権限を確保しておく、それをほんのちょっとつけ加えておく。それこそが真のガバナンスであり、リターンを得るためのガバナンスなのだ。