「お父さんのチャーハンが食べたい」
こんな台詞で始まるCMが、ネット上で以前、話題になった。東京ガスのCMだ。
このCMで描かれる「お父さんが作るチャーハン」は、お世辞にも美味しいものではない。卵かけごはんをただ炒めただけのものだ。パラパラというよりは、パサパサ。隠し味のソースは、隠れていない。「お母さんが風邪の時、怒って実家に帰った時などに出てくるもの」として描かれている。高校に入り、外食も増えてからは、拒否することも増えた。しかし、結婚式の前日に、娘は父に「お父さんの作るチャーハンが食べたい」と言う。娘の眼には涙が。そして、「美味しい」というのだ。
ガスは必需品と言えば必需品で、別にCMなど流す必要がなくて、いかにもイメージアップCMだな、などと自分の心の底の批判精神が滾りそうになったが、とはいえ、私も人の子なのでジーンとしてしまった。
このCMで大事だなと思うポイントは、「お父さんが作るチャーハン」に限らず、いわゆる「おふくろの味」にしても、「家庭の味は、すべてが美味しいわけではない」ということである。ただ、そこには、強い日常がある。だから、懐かしいと感じるのだ。
記憶はウソをつく。捏造される。出張することが多い私は、駅・空港やホテルなどで朝食セットを食べたり、駅弁を買う機会がよくある。これらのものはたまに「おふくろの味」とか「懐かしい味」をうたっているのだが、それはあまりに美化された「おふくろの味」であり、普通の家庭はそんな良いものを食べていないだろう。
昨日は母の日だった。親不孝者の私は昨日も同期会だ、打ち合わせだと飲み歩いて帰宅して、酔っ払ったまま札幌の母に電話をかけた。おふくろの味として思い出すものといえば、母の作る冷やし中華だ。麺も具も量がすさまじい。夏になると毎週、日曜日はこれだった。美味しいといえば、美味しい。ただ、量がすさまじい。母は笑いながら「愛情は、量が大事なの」と言う。半分はネタだと思ったのだけど、いま思うと、大変に有り難い話だと思ったりする。
母子家庭だったので、母は常に働いており、普段の食事は祖母が作ることも多かったのだが、料理をする日ならではの愛情表現だったのだろう。内地に出てきて、さらに社会人になって、分不相応にずいぶん贅沢なものを食べるようになり、そろそろ冷やし中華のシーズンなのだけど、どんな美味しい中華料理屋で食べても、母の冷やし中華は別格、いや格別だと感じる。
ロックスター矢沢永吉は、インタビュー、MCなどで「ライムシロップを使ったジン・ライム」の思い出を語る。キャロルを結成する前の、ザ・ベースというバンド時代のエピソードらしい。お客さんからもらったチップでライブハウス付近のショットバーで飲んだ、当時のお金で100円くらいのジン・ライムを注文したところ、その美味さに感動したとか。これを飲みたいときに何度でも飲める男になろう、と誓ったそうだ。そのジン・ライムのライムは、ライムシロップを使ったものだった。矢沢永吉は、ビッグになった。世の中も贅沢になった。いまや、安い居酒屋のジン・ライムも、本物のライムを使っている。ただ、矢沢永吉にとっては、今でも「本物のライムのジン・ライムは偽者」であって、「ライムシロップを使ったジン・ライムが本物のジン・ライム」なのだ。
いかにも芸能人の、昔は貧しかった談義に聞こえるかもしれないが、ここに食というものの本質があるような気がする。生活に必要な最低限のものとして「衣食住」があげられるが、それは、生活するということにほかならないわけだ。
その食というものは残酷なもので、時に人を分断する。ライター・編集者の速水健朗氏の最新作『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(朝日新書)は、今、日本人は食をめぐって大きく2つに分断されていると説く。食にお金をかけることを厭わない人々と、安全よりも安さと量を重視する人、だ。健康志向とジャンク志向という軸、さらにグローバリズムと地域主義という軸による食をめぐるマッピングの中に、日本人の政治的分断を見る。健康志向×地域主義がフード左翼、ジャンク志向×地域主義がフード右翼だ。もっとも、そもそも現代社会において、左と右とは何かという点が話題になるように、この定義も終章では一部、修正というか、視点の転換が加えられるのだが。古今東西の様々な事例を紹介しつつ(特にここ数十年でのアメリカでの動きを紹介しつつ)、食というものが、極めて政治的な意味を含んでいることが浮かび上がってくる。膨大なデータ・ファクトをもとに、時に通説のウソを暴きつつ、その根底にあるものを明らかにしようとする速水氏の視点は相変わらず面白い。食と言うものを淡々と描くが故に、「美味しそう」という感情があまり沸き起こらなかった。ただ、この描き方は実に秀逸で、であるからこそ、食と政治というテーマの根深さを伝えることができたと言える。
食に関する本といえば、作家・ジャーナリストの佐々木俊尚氏の『家飯こそ、最高のごちそうである』(マガジンハウス)も面白かった。率直に私は、これまでの佐々木俊尚氏の本は、好きか嫌いかで言うと嫌いであった。やや煽り気味の未来予測という感じの本が多いという印象であった。それに対して、この本に対しては好感が持てるのは、佐々木俊尚氏の強い日常が描かれており、地に足のついた話が書かれているからである。言ってみれば「自分語り」なのではあるが、彼の食をめぐる体験から始まり、料理のコツなどが描かれている。実体験であるが故に説得力がある。簡単で美味しく、センスのよい食生活をするための工夫が書かれている。なんせ、美味しそうだ。楽しそうだ。
とはいえ、「簡単で美味しい」をうたうこの本ですら、敷居の高さを感じてしまう人もいることだろう。食というのは、個人にとっては日常なのだ。時間やお金、価値観といったものが関係する。「それは、売れっ子の佐々木俊尚さんだからでしょ?」というツッコミも聞こえてきそうだ。いや、それでいいのだと思う。周波数が合うというか、実現可能だと思った人、共感する人なら参考にすればいいし、そうじゃないなら、スルーしていい。ここにもまた、速水氏が言うような「食による分断」が見て取れる。
そういえば、いま、「鼻血問題」で『美味しんぼ』が話題だ。該当する回を読んでないし、前後の回を読まないと判断できないと思うので、鼻血問題にはコメントしないが、素朴な驚きは、そうか、まだ『美味しんぼ』は読まれているのか、ということだ(この描写があったから、再度注目されたのかもしれないが)。私は始まった頃の、テレビアニメ化されていた頃の『美味しんぼ』は大好きだったのだが、途中で読むのをやめてしまった。何かこう、説教臭さというか、小難しさというか、そういったものを感じてしまったからだ。健康な食生活を送るということは、イエスかノーかで言うと、イエスなのだ。食に殺されたくはない。とはいえ、現状の食生活糾弾漫画に見えてしまったのも事実だ。安いものを食べざるを得ない人だっているわけだ。時間だってない。山岡さんにも海原雄山にも、我ら庶民との違いを見せつけられてしまった。だから読むのをやめてしまった。そして、ここにも食による分断を感じる。
「食の安全」ということが叫ばれて久しいが、とはいえ、何が安全なのかは分からない。佐々木俊尚氏が学生時代の思い出として描いているように、帰省して「おふくろの味」だと思って飲んだ味噌汁は、実は化学調味料だらけだったとか。私たちは知らずに、健康によくない(とされる)食品を食べている。速水健朗氏が触れているように遺伝子組換え食品は本当に危険なのかというのも論点だ。いや、そういえば、幼い頃「お菓子を食べると、虫歯になるよ」「コーラを飲むと歯や骨が溶ける」「インスタントものばかり食べたらダメ」なんて言われていたが、そんなものを食べ始めてもう40年近くになる。「死因は、インスタントラーメンの食べ過ぎだった」という話を聞いたことはない(間接的には影響しているだろうが)。そのインスタントラーメンは、安さ、もっと言うと貧しさを象徴する食品というニュアンスが少なくとも私が学生の頃にはあったが、この10年くらい大学に出入りする仕事をしていて感じたのは、今や普通のカップラーメンは学生にとっては高くて、日清食品と大学生協が共同開発したCO-OPヌードルなるものが売られていた。食に関する「普通」とは何だろう。
思うに、食に関しての「普通」は自分が決める時代なのだろう。つまり、自分は何が正しいと思うか、という。お金、時間、価値観が食を決める。もっとも、お金、時間に起因する部分も大きいのだけど。今後、ますます食は「共通体験」になりにくくなっていくのだろう。
それでも人は、何かを食べる(少なくとも、栄養を摂取るという行為をする)。食による分断は残酷だが、だからこそ、個々人が日常をどう楽しむかという姿勢が大切だ。冒頭にふれたお父さんの作った不味いチャーハン、永ちゃんが「美味い」と思ったシロップでできたジン・ライム、そんなもので世の中は動いている。
そんな私が日常的に食べているものといえば、このキャベツ丼だ。
美味い。良い食材を使っているが、安くて、早い。なんせ美味い。小さくても確かな幸せ。それが私にとっての食。今日もありがとう。